大江健三郎の書く一人称が嘘であるように――あるいは、純粋にキャラクターのみが動く一人称であるように、親指Pの修行時代、ひいては、松浦理英子の一人称もそういうものだなぁと、僕は感じたわけなのでした。
これについては、文庫本巻末に書かれている「自著解説(笑)」とは違った方法によって発見し、というより読中で思い込んでしまったので、今更、真野一実は松浦理英子本人が投影されたキャラクターなんですよ! とか言われても困ります。困りますというか、ありえないって思う。けどちょっとネットで調べて否定的な意見を見てしまうと、人は感動的に捉えられた作品、作者に対してもそこまで良くはないんじゃないかといぶかってしまうものだと思います。
ともあれ、松浦理英子という作家については、この親指Pの修行時代で知って、河出文庫BUNGEI collectionになってる、セバスチャン、ナチュラル・ウーマン、葬儀の日を読んでも、やっぱり僕としてはこの、親指Pの修行時代がすばらしいという風に思うのです。
今回は再読だったわけだけども、やっぱり登場人物の配置、そして巻き起こる問題などが計算ずくで、うへぇ、だとか、どひゃーだとか、思ったりしながら読んでいたりしたわけですけれども、今回の作品の主人公は真野一実ですが、今作においてみるべきポイントは、一実と政美の対比であるように思えました。場面的には一実と映子の関係が一番濃密だし、「快い」のだけど、そういう描写は、政美によってさらに引き立つ。物語後半から、一実と政美のコミュニケーションが多くなるのだけど、やっぱり彼なくしては親指Pを評価できないという気がする。なぜなら、一実と政美は確実に対象関係にあるからだ。
一実に親指ペニスができたのは、偶然とも、のろいとも見えるタイミングだった。原因は不明、夢を見たら現実にも生えている――意図が介在していない。政美の場合は、自分がレズビアンになりたくて、である。パイプカットをし、擬似陰唇(あるいはヴァギナ)までこしらえた。しかしクリトリスはついていない。「自分が本当は男なんだってことを、肝に銘じておくためよ。」
この二人はかなり対照的だ、ということが良くわかるのではないか。一実は基本的に性に対しての関心がなかったのだが、親指Pの存在によって、有無を言わせず意識せざるを得ない。筆者は自著解説でもそのことを示唆している。
かわって政美は、元から性に対しての関心があり、自分のペニスを切除し、人工ヴァギナを拵えることによって、「女」になろうとした。しかし彼に寄ってくるのは「興味本位で寝たがる相手」であって、そこに愛はなかった。
一実はこの物語によって、愛情と呼ばれるものをセックスを通じて理解したり会得していたりするけれども、政美にはそれがない。
本当はもっと書きたいのだけれども、読中の心境をすでに忘れてしまったらしく、本当に自分の記憶能力の低さに閉口するだけだ。どうにかしたい。もともと、一実と政美についてはこんなところに書いてあるだけの理由で見るべきだとしているわけではないし、読中にはそれを意識していたし、理解もしていたと思う。
人物配置の妙については、書く必要があるのだろうか。これは考えてみたらすぐわかることだ。繁樹は健常者に近いけれど、彼にはそういう健常者に近いキャラクターでなければ亜衣子との葛藤は生まれなかっただろうし――つまり亜衣子のために存在したキャラクター、映子という存在は、愛情なんてものを解体するための道具のようなものにも思える。これは一実の映子への好意に気づくところでわかったはずなのだけど、実際どうだろう。話が長いと、ついつい読んでいる箇所に書いてある文章でその状況に気づくので、初読時にはここら辺を見落としていた。保については、インポテンツであるのに性交が出来るという自己矛盾を抱えている若者で、まさに映子の相手役に相応しい。相手が映子という存在でなければ、愛情なんてものを感じ取ることは到底不可能だっただろう。春志に対しては、まるで女の子のようなという形容詞をつけたくなるほど、男っぽくない。子供っぽいとも言える。これは男性性に対しての回答であり、一実を恋愛という固定観念からジャンプさせるのには、いいステップである。
というか、この作品は意図的にストーリーを排除しているはずなのに、別の視点から「そういうビルドゥンクス・ロマンじゃない」というのは、どうなんだろうか。まあ、僕は松浦理英子じゃないのでいいけど。
庸平に対してのコメントがなかったから今書くけれども、庸平の扱いは丁寧にも宇多川の台本に書いてある。その容貌ゆえに女から相手にされない男。しかし彼には美しい彼女がいる。庸平は宇多川に対する回答のために存在しているとみていいだろう。
結局この作品では何が言いたかったのか――僕個人の勝手な解釈によって(これまでの文章もかなり勝手な解釈が混じってはいるが)ここにあらわしてみると、ペニスがなくてもセックスできるし、愛情を育むことが出来る、といった類だろうか。なんだかしっくりこない。この本はもっと僕の内側をえぐってくれたのだと、思っていたのだけど、賢者タイムになり、アウトプットしようとすると、ふにゃちんになってしまう。
ペニスがなくても愛情を与え合うことが出来る――なんていうのは、セバスチャンでもそうだと思うし、ナチュラル・ウーマンでもそうではないか? これらの小説では実際に男性と性行為をしている場面は出てこない。そうであるのに、二人は愛し合っているといっていい関係である。
書いてて思った。純文学を読み解くには卓越した論理力がいるのね。
なんだか本当に萎えてしまった。親指Pの修行時代って、結局オナニー小説だったのかよ、と軽く落胆してしまう僕です。でも別に小説とは本来読むものであって、考えるものではないからいいんじゃないか、とも思う。
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