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烏有に帰した野原で

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2026.08.11 Tuesday 22:16

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一瞬のうちに去来した嫉妬

2009.01.13 Tuesday 21:00

pixiv見てると、絵に嫉妬している自分がいる。
なんで、なんでこんなにもたくさんの絵を描くことができるんだ。羨望。
そして、その絵、絵のうまいことうまいこと。嫉妬。
僕はたくさんの作品を書くことも、うまく作品を書くこともできない。
いまだ、納得できたためしがない。自分から認めた作品というものが、全力を出してやった作品というものがない。
そして気づく。あぁ、まだしがらみに絡まれているのかと。
絵や音楽で羽を伸ばしたいと願う。文章では、あまりにも制限が厳しい。やっぱり言葉は浮遊している。僕はそれをつかみたくて宙へ手を伸ばすけど、言葉はすり抜けていく。言葉を扱うのが、一番難しい。
絵も音楽も、見せられれば、聞かせられれば、評価が返ってくる。みんな好きだからだ。
だが、小説ならどうだろうか。わかる人とわからない人しかいないではないか。しかもわかる人というのもかなり範囲が狭い。絵や音楽でもそうなのかもしれない。いや、そうなのだ。表現に優劣はない。
結局僕は怖気づいていただけなのかもしれない。
自分のしていこうと思うことに。
未開の地へ。
はじめの一歩は、誰でも怖がること。
それが小説であってもバイトであっても、同じこと。
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みんな豚になるな。孔雀になれ。

2009.01.13 Tuesday 17:26

よくクラスメイトに、頭を見られながら「風呂入れよ」といわれる。個人的には、中学時代にもそういうことがよくあったからほとんど慣れていたし、わざわざ言うことかよ、とか思ったりするのだけど、彼らは過剰なまでに反応しやがる。
まるで風呂に入らないのが信じられないとでも言うように。

僕からしたら、彼らの「風呂に入らないのが信じられない」ということが信じられない。一種の差別であり、迫害ではないか。もちろん、僕は民族上の理由があって風呂に入らないわけではない。ただ、風呂に入るという行動の優先順位が、そこまで高くないからだ。だから、今日みたいにうっかりしていると、わーわーぎゃーぎゃーと言われる。若者言葉を使えば、「うざい」の一言で片付けられるだろうか。もっとも、僕の使う「うざい」と彼らの使う「うざい」は異なるようだ。今回使ったのは、彼らの使う「うざい」である。
身体を清潔に保つということと、ファッションというものは似てると思う。少なくとも、その目的を欲望に結びつけるのなら、であるが。求愛のために風呂に入り、服を着飾るという論理は、やっぱりおかしい。そうまでしなければ「愛」という幻想を得られないんだ、と切実に訴えかけてくる人がいるなら話は別だが、そんな人、この世の中にいるだろうか。もしかしたらいるかもしれないから、断言はしない。それにしてもおかしい話である。
まず、前提からしておかしい。なぜ他人のために行動しなければならない? お前は愛を享受したいのか? そんなマザコンは母親のおっぱいでもすってればいい。
僕は恋愛って能動的な行動であると思っている。そうでなければひどく見苦しい。ギャルゲのやりすぎで転校生を待つようになったらおしまいだ。彼ら、そして僕の問題は、いかにして女の子に接近するかである。
ファッションに関してもそうだ。よくVIPとかのログで見る、初デートでのファッション審査。なぜそんなことをする必要がある? 体面よく思われたいのなら、中身から変えろよ、と思う。外見だけ変えても、何にもならない。すぐ看破されてしまうだろう。もっとも、近づいてくれる女の子がいるなら、質問なんかしてくるなというくらいにすら思うのだが。

僕は猫である。トラや豹ではない。もちろん狐でも、狸でもない。あるいは、兎や牛でもない。猫である。
僕は時々、孔雀の美しさに目を奪われる。
あの人はきれいだ。
他の動物たちも彼の美しさに目を奪われている。
あいつはきれいだ。
そして彼らは考える。やつのどこがきれいなんだ。
僕は特に、孔雀の羽がきれいだと思う。あの光に反射して煌くさまは、あの羽でしか見られないと思うから。
他の動物たちも、そんなことを思ったらしかった。
ふと、一匹の豚が、孔雀の前にしゃしゃりでた。
「おい孔雀。その羽を一本よこしてくれ」
孔雀は言う。
「別にいいが、僕の羽をどうするんだい?」
豚は鼻息を荒くしながら、
「おいらの身体にくっつけるんだい」
孔雀は笑いながら答える。
「へぇ、自分のケツの穴にでも突っ込むのか。ケッサクだな。僕も見たいから、ほら、一本やるよ」
あたりの動物も笑い出した。豚の顔は見る見る紅潮していく。
豚は言った。
「ちがわいちがわい! おいらの身体につけるんだい。ケツの穴なんかに突っ込むかい!」
その反論は寂しいにもほどがあった。動物たちは調子を変えず笑い続けている。僕は笑わなかった。
豚は自分が何を言おうと、この状況は変わらないということが、なんとなくわかっていたようだったが、ここで引き下がるわけにはいかないのだろう、最後の懇願をした。
「孔雀よ、たのむから、一本でいい。その綺麗な羽をオイラによこしてくれ。ケツの穴には入れないが、その羽がほしいんだ」
孔雀は言う。
「僕は別にかまわない。だが、僕の羽は君には似合わないよ。それでも本当にいいんだね?」
その言葉が豚に追い討ちをかけることになった。
僕の羽は君には似合わない。すなわち、孔雀の羽をもってしても、豚は豚のまま。着飾っても痛いだけ。
豚はついにおいおい泣き出した。孔雀はもちろんあわてるが、周りは冷ややかにその様子を見ているだけだった。僕もその様子を眺めていた。
孔雀には、なぜ豚が泣くのかわかっていなかった。さっきの言葉には少しの謙遜も含まれていなかったように思える。むしろ、豚の尊厳のためにああして答えたのだと思った。だが、それを誰もわからない。
そして静かに、孔雀は口を開いて自らの羽を一本一本抜いていった。一本だけかと思ったら、どんどんどんどん抜いていった。誰も止められなかった。彼はついに自分の綺麗な羽をすべて抜き去った。それから、言った。
「綺麗な羽が欲しければみんな持っていってかまわない。僕にはこんなもの必要ない」
そう言った彼の姿は、誰の目にも醜く見えなかった。

少しの間、動物たちの間で孔雀ファッションが流行したが、すぐに潰えた。


それにしてもこんなわかりやすい話を書いてしまっていいのかという後悔がいまさらながらに襲ってきたけど、書いたものは書いたものだからいいや。

まじめにふまじめおおまじめ

2009.01.12 Monday 23:31

僕はこれでもクリスチャンだから、牧師の説教なんていうのはいくらでも聴いているのだけど、時に、その前提がわからなくなる。キリスト教を、なぜ人は信じるのか。
クリスチャンは、幻想にまみれている。だって、他人の身の上に起こった信仰体験を聞いて、喜ぶのだ。共感している気になるのだ。
他人の身の上に起こっているということは、自分の感知していないことを聞いているわけである。
洗礼にしてもそうだ。なんで喜ばしいことなのかがわからない。
クリスチャン的には、それは自分たちと同族になる、神の家族になるからであるとか、自分ひとりの存在は小さいけれども結束すれば山でも動かせるとか、なにやらそう言った信仰のようなものが見えなくもないのだが、それは普通に考えてみればありえないものである。
空気読めという言葉は、幻想を強要する言葉なのだ。そして、クリスチャンは空気を重視する。

説教の中で牧師は時に、なぜ神様を信じたのかというような、クリスチャン的にはあまりにもわかりきっている(と思い込んでいる)質問を投げかけてくる。

キリスト教には、原罪意識というものがある。エヴァが蛇(サタン)によってそそのかされ、知恵の実をアダムとともに食べたことに起因する意識ですが、僕はこれがよくわからない。
僕は基本的には、人間の(客観による性格的な)悪いところというものをあまり気にしない(あるいは自分が大体そういう悪いところの性質を持っているからかもしれないが)性質なので、何が罪なのかというところから探っていかなければならないのだけど、大体この答えは神から離れること、となる。
この論理のおかしいところは、神がいなかった場合、人間に罪があるのかという点である。もしあるのだったら、それが何かの説明がほしいところであるが、17年間教会に通っているらしい僕の耳には他の言葉を聴いたことがない。
もともと、神ありきであるのが宗教なのだから、しかたがないといえば仕方がないのかもしれないが、神の存在に疑いに掛かっている僕からしたら、拍子抜けになる。結局、神なんていないんじゃないか。
しかし僕は賛美となると、幸せになれる。歌えるからというのがあるのかもしれないが、もっと内なる部分で、つながっているものがあるのかもしれない。
そしてそんなものは、他人にとっては、非常にどうでもいいことであったりする。

純文学とはartであり、エンターテイメント小説とは萌え絵である

2009.01.11 Sunday 17:30

pixivからの思いつき。

pixivで公開されている絵のほとんどが、デフォルメされた、萌え絵である。これは疑いようもないだろう。現実に見てもらえばわかる。では、なぜ彼らは萌え絵を描くのだろう。
理由はきっと単純に、萌え絵が好きだからだ。投稿サイトにワナビが沸き返るのも同じ理由だろう。彼らはラノベが好きなのだ。
2chなどのイメージ=オタクであるのは僕の肌が感じた結果なのだけど、ネット=オタクという公式は、全面的ではないにしろ、当てはまる部分はあるだろう。コミックマーケットの規模の拡大には、ネットという閉鎖的なメディアの発達があげられるだろうし、アニメが深夜に移行したことも関係しているかもしれない。おっと、話がそれた。

投稿サイトに出入りしているからこういう、「純文学はオナニーだから無視していいですよねー?」というような質問をよく目にするのだが、それは単純にラノベというぬるま湯につかりたいだけなのだという風に思っている。あるいは、自分のやってることを正当化したい、とでもいうような願望が丸見えで、やっぱりダメだなぁとか思ったりする。

pixivの影響で絵を描き始めてみた。結果は散々である。もともと苦手意識があったからかもしれないが、絵を描くという行為は、やっぱり僕には不向きらしい。どうも、目に見たものをそのまま表現するというよりは、"そこにあるもの"を表現したがる傾向にある。
ちなみに、僕はartをやろうと思っているわけではない。artをやるならば、途方もないデッサンをしなければならないし、デッサンは僕のもっとも不得意とする分野だ。適正が違うのかもしれない。
しかしながら、絵の基本はデッサンである。キャラクターを描くときだって、身体の構造をちゃんと理解していないと、人物に見えず、結果として崩壊してしまう。

http://www.moee.org/

昨日、絵を描こうと思ってここを見たのだが、やはり僕には向いていないようだった。萌え絵についてはここに書いてあった。

http://dessin.art-map.net/technic/level0/index.htm

こちらはデッサンについて。

pixivの絵師たちは、デッサンを怠っているわけではないとは思う。純粋に絵がうまくなりたいと思っているだろうし、その情熱を感じ取ることもできる。しかし、彼らが出力するのは萌え絵なのだ。「しかし」という逆説を使ったが、ここに否定的な意味はこめていない。もし彼らを否定することになるのなら、東野圭吾や桜庭一樹を否定することになる。
なぜデフォルメするのか。それは、そちらのほうが親しみやすいということもあるだろう。日本人は特にその傾向が強いように思える。マンガは、その最たる例ではないか。マンガから派生したアニメ、そしてそれを発達させたのが、今のオタク文化という風に考えることも可能だろう。今ではどれだけ可愛いデフォルメができるのか、という目的意識さえ感じさせる。
だから、"二次元に逃避する"という言い回しになる。(オタク文化的な)二次元に、リアル(現実、写実)がないからだ。

そしてこのある種のデフォルメに、エンターテイメント小説も入ると、僕は思うのだ。オタク文化に染めてしまったのがラノベである。

デフォルメの作用は、もうひとつある。それは、わかりやすくなるということである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%A1

ここではユゴーの頭が広くなってるのだが、本文にもあるように、「絵画彫刻などでモチーフ特徴を誇張・強調した変形を加える表現手法」なのである。わかりやすくなる、というよりは、わかりやすく表現する技法だな。
エンターテイメント小説のキャラクターを見ていると、"要素の抽出"とかいう風に思えるのだけど、これもデフォルメされているからだろう。"要素の抽出"ということを説明すると、対象の持っている属性をそのまま抜き出したようなものという認識だ。
一つ前の記事で、エンターテイメント小説は読者に読ませたいという動機によって書かれるというような旨を書いたが、その工夫のひとつがこれだ。大体のエンターテイメント小説(特にラノベ)では(人間的に)矛盾を孕んだキャラクターというものは、ほとんど登場しない。断言できないのは、僕の読書量が少ないからである。
純文学にも、そういったデフォルメされたキャラクターというものはもちろん登場するが、デフォルメのされ方が違う気がする。うまく説明できないのも、読書量が少ないからである。

なんとなく疲れてしまったので一旦ここで閉じることにする。

方法論

2009.01.11 Sunday 15:35

とりあえず思いつきの記事。

純文学とエンターテイメント小説は小説に変わりない。確か佐藤亜紀も言っていた気がするのだが、これがもし本当なら、純文学とエンターテイメント小説を同じ人物が書くことは可能ではないか。
まず、純文学とエンターテイメント小説の違いについて、勝手に述べる。
純文学作品について、僕は多くを語ることができないのだけど、型の決まっていない小説とでも言おうか。あるいは、文章だけ、内容だけで読ませられるものといおうか。まあ、そうではないというのであれば、きっとそうではないのだろう。ただ、エンターテイメント小説については明確に言える。読者のためにわかりやすく書かれた小説だ。これが前提条件になるだろう。純文学がわかりにくいというわけではないとおもうけれど、エンターテイメント小説とは、少なからず読者に重きを置かれている。何が描きたいのかというよりも、何を読ませたいのか。
とするのならば、なにも問題はない。エンターテイメント小説で使う、読ませるための原理を応用すれば、純文学は書けるのではないか。これはひとつの方法論のようなもので、書くに当たっての題材の加工、および考察を抜くことはできない。これはもちろん、エンターテイメント小説でも必要だと思うのだけれど。
なぜこんな風に思ったのかをフローチャートにすると、

読ませられなければ書いた意味がない

なら読ませられるように書けばよい

読ませるためにはどうするか

エンターテイメント小説は読ませる工夫が満載

エンターテイメント小説の読ませる工夫の原理を応用したら読ませられるかも!?

こんな具合だろうか。
正直言って、甘い考えなんだろうな。まともに小説かけたことのない人間の戯言だから。
そして今日もまた、何にもならないことをする。
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