私は羊です。
私は羊飼いによってしか従うことができません。
しかし羊飼いよ、あなたはなぜそうも私の前にさまざまな姿で現れるのですか。
私は、どの羊飼いについていけばいいのかわかりません。
私は奴隷です。
私は主によって従うことしかできません。
しかし主よ、あなたはなぜそうも私の前にさまざまな姿で現れるのですか。
私は、誰についていけばいいのかわかりません。
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僕の悪癖のひとつに、わかった気になるというものがある。クイズ番組を見ているときであったり、会話の途中であったりするときに出てくることが多いと思う。例えば、上に書いてある文章などだ。
上に書いてある文章は、どっちにしろ意味が同じものになる。キリスト教の聖書解釈では、羊とは人間をあらわす。かわって奴隷というのは黒人奴隷のことで、彼らは奴隷時代、教育を受けさせてもらえなかったという。物を知っていることが権力の象徴であった時代の話である(まあ、ここら辺も十二分に判った気になっている文章だけどノリで書いてしまうオレ)。
もはや僕には同一のものにしか見えないのだが、この二つに共通していることは、"知らない存在である"ということだ。
キリスト教的聖書解釈において(まあ、聖書に書かれてることなんだけど一応)、なぜ人間が羊に喩えられているのかといえば、それは単純に、「頭が足りない」からだ。
ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受ける。 また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。 これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった。
Wikipediaからの引用だが、聖書当時の世界では、確かにこのような性質を持っていたら「頭が足りない」という風に思うだろう。
さて、微妙に順序がぶれてしまってどうしようかと思っているけれど続行します。
これのどこが、「わかった気になる=しったか」なのかといえば、ここから進んでいないというところだろう。そうなのである。この話は、たったこれだけで何の意味も持たない。「キリスト教の教えってつまりはサド・マゾなんだぜ!」っていうことの証明にも使えるかもしれないが、あまり強くないだろう。羊と羊飼い、奴隷と主の関係が同じであっても、何を語れるということはないだろう。労働者と資本家、農民と殿様の関係とは少し違うんだぜ! 程度のことは言えるかもしれない。
むしろ、語れないのではなく、語る気がないのだ。前の文章の主語が抜けているが、これはもちろん僕が、である。僕はこのことについての原因究明ができる。どちらかといえば、こっちのほうが得意なのだ。
僕という人間は、仔兎のようなもので、疎外感を感じることを嫌います。そして、話題から少しの疎外感を感じると、噛み付くようにとっさに言葉を吐く。それは自分で思っている、話題に最も近い「回答」なのですが、大体において外れてしまう。外れてしまうと、「何知ったかしてんだよ!」というような非難であったり、「わかってない」とかいう言葉を突きつけられることになります。しかし、少なからず当たることもあるので、思わず発言してしまう。それが「解答」なのではないかと思いながら。
僕が自分の記憶に自身が持てていないということも、ひとつの理由として追加することができるだろう。あるいは、こちらのほうが信憑性が高いのかもしれない。
僕は自分の記憶に自信が持てないので、話題に上がった、「どこかで聞いたことのあるような」もの、ことを、つい口に出してしまうことがある。それは大体において当たるのだが、外れることもある。外れてしまうと、「知ったか」になってしまい、非難されます。
問題はここから先で、僕はどうやら、共感を得たらそれ以上進まないようだ。つまり、わかったら、わかったのだ、という風に考えがちなのである。これは細野さんの言う、「バイアス」であり、「ゆがみ」だ。
なぜこんな風になってしまうのか、そして、ここからどう抜け出せばいいのか。これについて考えろといわれても、僕は動けない。そりゃそうだ。考えていないのだから。僕の論(笑)や、言葉というものは、大体において思いつきだ。悲しいまでの事実。将棋などでもそうなのだが、僕には思考の持続性、思考の体力が、どうも欠けているようなのである。いつもどこかせかせかしてて、自分でもそんなに急いで何をする、という風に思うのだが、結局観測どまりで、思考が展開されない。恐ろしい事実。
というわけで、マインスイーパの上級やってきます。