夢見さんが言っていたけれど、「自分の中で伝えたいことを決めて~」っていう部分。やっぱりオナニーなんじゃないかという気がしなくもない。もともとオナニーなんてのは隠れてやるものだし、卑しいという風に思えるのはそれが隠匿されてるからじゃないかという気がしなくもない。何より、生産性がないというところまで類似しているから、やっぱり夢見さんのいう「伝えたいテーマ」を設定することはオナニーだと思う。
人は、何かを伝えたいから小説を書くのだろうか。しかし何を伝える? 伝達能率は、言葉より低いのに。さらに言えば、わざわざ小説にして伝える必要がない。何らかの論文やら講演会やらで伝えればいい。でも小説を書いてる。ある人は、その目的を持って。
しかし、小説の膨張性を考えるのだったら、ラノベでは無理じゃないかという気がする。たいていの人がストーリーを主眼として考えているし、そもそも小説の膨張性自体を信じていない気がする。小説の膨張性というのは、テーマを超えた状態とでも言ったらいいのかな。
ストーリーを整えようとすると、小説の膨張性をうまく発揮することはできない。逆に、ストーリーに技巧、工夫を加えてさらに膨張させるということもできるけれども、ラノベ作家志望の人はそういう意味でストーリーに凝ってるわけじゃなさそうだと見える。だけどブギーポップがあったから、ゼロだとは言えない。
結局小説はAVと同じだ。何も高尚なんかではない。ある種の快感を得るために存在している。そこに意味を持たせようとするから、誤解する人が多くなる。夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、島崎藤村、江戸川乱歩、夢野久作……これらの古典作家をいくら読んでいようと、賢いわけではない。もともと、小説は読者の中では(作者の意図したように)成長しないのだから。
読み取れている、読み取れていないという問題もそうだ。もっとも、記述を見誤ったり、ストーリーを読み間違えているのはすでに読めていないのだから、読み取れている読み取れていないとは別問題だが。
無論、上記にある作家たちを否定したいのではない。ただ、むやみやたらに日本の古典作品を出すのは如何かな、と思ったりするというわけだ。同じことをラノベにも言いたい。
NHKの大阪文学学校をテーマに据えた番組で、ある人が言っていたのだけど、「読んだ後に何かが残れば」という幻想も気持ち悪く思う。これは、自分が伝えたい、伝えられたということが残っていればという語意にしか見えない。というか、未練だ。ちゃんと相手に伝わるということはほとんどない(と知っている)けれど、ほんの一握りの人にでも伝われば。これがオナニーでなくてなんと言う? 自己満足だ。そう表現したことを喜んでいる。また、読者傾向というのもそのように思える。こういうものが好きなんだろう? という風に顕示しているのだ。知ったつもりになっているのだ。そんな新人賞、面白いか? 人々がこぞって似たような作品で攻めてくる。予想自体は大丈夫だ。ただのオナニーに過ぎない。だが、読者想定ということになるとそれは公開オナニーをやっていることになる。こういう作品を書けば人気を取ることができる、楽しませることができるという自己満足だ。
この場合、作者と読者は別人となる。だが、作者と読者は同じだ。一人の読者であるから一人の作者となりえるはずだ。本気で書くとはそういうことだと思う。自分が読みたい作品を、全身全霊をこめて書いていくのが作者だと思う。そうであってほしいという願いも含まれるが、そうでなければどんどん減退していく。ライトノベルに芸術的な作品があっていいと思う。ミミズクと夜の王やら、とある飛行士への追憶やらがもっと増えればいいと思う。ああいう全力の作品をもっと読みたいと、僕は思うのだ。なのに、ライトノベルは商業ジャンルだから、そうならない。作者たちは新人賞に受かりたい、望んだ文庫で作品を出版させたいと、躍起になって本を読むが、それは無意味であるはずだ。そうなったらお前たちは作者じゃなくなる。だから捨てられるのだ。作家として確固とした誇り――自身の正当性を持たないから、捨てられてしまうのだ。つまりお前たちはまだ全力を出し切っていない。レーベルの対策なんか、なぜするんだ? 電撃では書かせてくれるからか? お前たち。お前たちの書いた作品が本当に凄ければ、編集部は書かせてくれるんじゃないか? それを計算のうちに入れてなかったとは、言わせない。
保坂和志は「書きあぐねている人のための小説入門」において、『「新人賞」がゴールではない』と書いている。読みたければ読めばいいが、お前たちが小説家になりたいと思っているなら、これくらい意識したらどうだ。お前たちがやっていることは、新人賞を突破する方法(笑)だ。
お前たちはすでに目的が摩り替わっているのに気づいていない。電撃大賞の本をいくら読んだって、電撃大賞がすぐ取れるわけじゃない。読むなら2~3冊で結構だ。または評判でもいい。ある程度の傾向だけわかれば、どこまでやったら落ちるかわかるはずだし、そもそも新人賞はそれなりに柔軟な姿勢を示しているんじゃないか? この新人賞はこのジャンルの作品だけー、なんてばかげたことがあるわけがない。無論、ミステリの賞になると変わってくるが、ライトノベルというジャンルでは、たいていそうだ。確かにラブコメではとりにくいかも知れない。けれども、受賞はしている。言っている意味がわかるか? お前たちは自分たちの可能性を自分たちでつぶしているのだ。だから新人賞とるぞ! ではなく、取れたらいいなぁになる。馬鹿馬鹿しい。
小説の目的は、面白いことだ。読んで楽しめるかどうか。ほかのものなんていらない。必要ないはずだ。まあ、補助になったりするかもしれないが、それは副産物であって、主産物ではない。また、副産物は意図的に作られるものではないことを明記しておこう。副産物とはたまたまできてしまったものに過ぎない。
そして、面白いやら楽しいやら快いだのの感情は、生産性がない。ただの状態に過ぎないのだ。生産性がないというのは、作品の進歩がないという意味でもある。生産性が生じるか否かは、読者によって決められるし、そんなものは筆者にとってもほかの読者であっても、むしろどんな人にとってもどうでもいいことだ。
多くの男たち(ネットに徘徊している男たち)は、AVの監督になりたいということを思っているらしい(掲示板で見た)が、それは彼らがAVをかなりの量見てきたからだ。あるいは、本気で楽しんでいたからだ。作家もそうであっていいと思うし、むしろそういうものじゃないのか? お前たちは何のために本を読んでいる? 作家になるためだったら今すぐやめろ。そんなやつは作家になれない(僕の論では)。本を読むことに楽しみを見出していないなら、書いたところで面白いものが書けるわけがない。逆に、本を楽しんで読んでいれば、それだけ面白さとかいうツボがわかってくるものだと思うのだが、気のせいか。
いくらラノベでの技巧やらに目をやっていても、その作品を楽しむことができていないなら何も得ることはできない。小説の魅力は読んでいる時間のみに存在する。読んでいた時間のことを思い出せないなら、それは無意味になる。
純文学とエンターテイメント小説(ラノベ含み)を比べる人が居るけれど、なんていうのかな。やっぱり区別する必要はない。読者の仕分けとしてのジャンル分けは必要だろうが、小説自体の価値は変わらないはずだ。であるから、作家という視点から比べることはおかしいのだ。どれどれはどういう作品で~っていうのは、さっきも上で述べたように、かなりアバウトな傾向に過ぎない。純文学なのかエンターテイメントなのか良くわからないような小説もあると思うし。
ワナビたちが嫌ってる純文学についてだが、お前らは親の庇護の中で遊ぶ仔犬みたいなものだ。純文学のじのじもわかってない。というより、わかる必要がないのかもしれないが。お前たちが嫌っている本当の理由は、それを知らないからだ。知らないけれど、純文学ってオナニーという無根拠な意見を鵜呑みにして、純文学はオナニーだから大嫌いです>< とか言いやがる。そして、ラノベはエンタメだから至上、とか抜かす。アホだ、アホ。つってもまあ、最近はこの手の人を見なくなったけれども、どれにしても同じことだ。純文学はまったくオナニーでもなんでもないし、逆に閉塞されたラノベのほうがオナニーっぽい。「集団オナニー」だ。
別にオナニーしてる人を否定はしない。気持ち悪いとは思うけれど。
そして、ラノベ以外の本も読んだほうがいいということだが、これは本当は違う。ラノベ以外の本も必ず数度は読むべきなのだ。そして、自分の嗜好を試すべきなのだ。ぬるま湯に浸かって居たいなら浸かっていればいいが、僕は敵意を示す。見ているだけでイライラする。
とまあ、いろいろ書いてみたけど、ひとまず終わりにしておこう。途中で自分の文体にベルカが写っていたことにびっくりしたけどキニシナイ。
(追記)
あ、ちなみにこれは読書を愉悦のものとして捉えた場合に他ならないことを書いておきます。
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