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烏有に帰した野原で

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小説は消費するものだ

2009.02.18 Wednesday 15:22

夢見さんが言っていたけれど、「自分の中で伝えたいことを決めて~」っていう部分。やっぱりオナニーなんじゃないかという気がしなくもない。もともとオナニーなんてのは隠れてやるものだし、卑しいという風に思えるのはそれが隠匿されてるからじゃないかという気がしなくもない。何より、生産性がないというところまで類似しているから、やっぱり夢見さんのいう「伝えたいテーマ」を設定することはオナニーだと思う。

人は、何かを伝えたいから小説を書くのだろうか。しかし何を伝える? 伝達能率は、言葉より低いのに。さらに言えば、わざわざ小説にして伝える必要がない。何らかの論文やら講演会やらで伝えればいい。でも小説を書いてる。ある人は、その目的を持って。
しかし、小説の膨張性を考えるのだったら、ラノベでは無理じゃないかという気がする。たいていの人がストーリーを主眼として考えているし、そもそも小説の膨張性自体を信じていない気がする。小説の膨張性というのは、テーマを超えた状態とでも言ったらいいのかな。
ストーリーを整えようとすると、小説の膨張性をうまく発揮することはできない。逆に、ストーリーに技巧、工夫を加えてさらに膨張させるということもできるけれども、ラノベ作家志望の人はそういう意味でストーリーに凝ってるわけじゃなさそうだと見える。だけどブギーポップがあったから、ゼロだとは言えない。
結局小説はAVと同じだ。何も高尚なんかではない。ある種の快感を得るために存在している。そこに意味を持たせようとするから、誤解する人が多くなる。夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、島崎藤村、江戸川乱歩、夢野久作……これらの古典作家をいくら読んでいようと、賢いわけではない。もともと、小説は読者の中では(作者の意図したように)成長しないのだから。
読み取れている、読み取れていないという問題もそうだ。もっとも、記述を見誤ったり、ストーリーを読み間違えているのはすでに読めていないのだから、読み取れている読み取れていないとは別問題だが。
無論、上記にある作家たちを否定したいのではない。ただ、むやみやたらに日本の古典作品を出すのは如何かな、と思ったりするというわけだ。同じことをラノベにも言いたい。

NHKの大阪文学学校をテーマに据えた番組で、ある人が言っていたのだけど、「読んだ後に何かが残れば」という幻想も気持ち悪く思う。これは、自分が伝えたい、伝えられたということが残っていればという語意にしか見えない。というか、未練だ。ちゃんと相手に伝わるということはほとんどない(と知っている)けれど、ほんの一握りの人にでも伝われば。これがオナニーでなくてなんと言う? 自己満足だ。そう表現したことを喜んでいる。また、読者傾向というのもそのように思える。こういうものが好きなんだろう? という風に顕示しているのだ。知ったつもりになっているのだ。そんな新人賞、面白いか? 人々がこぞって似たような作品で攻めてくる。予想自体は大丈夫だ。ただのオナニーに過ぎない。だが、読者想定ということになるとそれは公開オナニーをやっていることになる。こういう作品を書けば人気を取ることができる、楽しませることができるという自己満足だ。
この場合、作者と読者は別人となる。だが、作者と読者は同じだ。一人の読者であるから一人の作者となりえるはずだ。本気で書くとはそういうことだと思う。自分が読みたい作品を、全身全霊をこめて書いていくのが作者だと思う。そうであってほしいという願いも含まれるが、そうでなければどんどん減退していく。ライトノベルに芸術的な作品があっていいと思う。ミミズクと夜の王やら、とある飛行士への追憶やらがもっと増えればいいと思う。ああいう全力の作品をもっと読みたいと、僕は思うのだ。なのに、ライトノベルは商業ジャンルだから、そうならない。作者たちは新人賞に受かりたい、望んだ文庫で作品を出版させたいと、躍起になって本を読むが、それは無意味であるはずだ。そうなったらお前たちは作者じゃなくなる。だから捨てられるのだ。作家として確固とした誇り――自身の正当性を持たないから、捨てられてしまうのだ。つまりお前たちはまだ全力を出し切っていない。レーベルの対策なんか、なぜするんだ? 電撃では書かせてくれるからか? お前たち。お前たちの書いた作品が本当に凄ければ、編集部は書かせてくれるんじゃないか? それを計算のうちに入れてなかったとは、言わせない。
保坂和志は「書きあぐねている人のための小説入門」において、『「新人賞」がゴールではない』と書いている。読みたければ読めばいいが、お前たちが小説家になりたいと思っているなら、これくらい意識したらどうだ。お前たちがやっていることは、新人賞を突破する方法(笑)だ。
お前たちはすでに目的が摩り替わっているのに気づいていない。電撃大賞の本をいくら読んだって、電撃大賞がすぐ取れるわけじゃない。読むなら2~3冊で結構だ。または評判でもいい。ある程度の傾向だけわかれば、どこまでやったら落ちるかわかるはずだし、そもそも新人賞はそれなりに柔軟な姿勢を示しているんじゃないか? この新人賞はこのジャンルの作品だけー、なんてばかげたことがあるわけがない。無論、ミステリの賞になると変わってくるが、ライトノベルというジャンルでは、たいていそうだ。確かにラブコメではとりにくいかも知れない。けれども、受賞はしている。言っている意味がわかるか? お前たちは自分たちの可能性を自分たちでつぶしているのだ。だから新人賞とるぞ! ではなく、取れたらいいなぁになる。馬鹿馬鹿しい。

小説の目的は、面白いことだ。読んで楽しめるかどうか。ほかのものなんていらない。必要ないはずだ。まあ、補助になったりするかもしれないが、それは副産物であって、主産物ではない。また、副産物は意図的に作られるものではないことを明記しておこう。副産物とはたまたまできてしまったものに過ぎない。
そして、面白いやら楽しいやら快いだのの感情は、生産性がない。ただの状態に過ぎないのだ。生産性がないというのは、作品の進歩がないという意味でもある。生産性が生じるか否かは、読者によって決められるし、そんなものは筆者にとってもほかの読者であっても、むしろどんな人にとってもどうでもいいことだ。
多くの男たち(ネットに徘徊している男たち)は、AVの監督になりたいということを思っているらしい(掲示板で見た)が、それは彼らがAVをかなりの量見てきたからだ。あるいは、本気で楽しんでいたからだ。作家もそうであっていいと思うし、むしろそういうものじゃないのか? お前たちは何のために本を読んでいる? 作家になるためだったら今すぐやめろ。そんなやつは作家になれない(僕の論では)。本を読むことに楽しみを見出していないなら、書いたところで面白いものが書けるわけがない。逆に、本を楽しんで読んでいれば、それだけ面白さとかいうツボがわかってくるものだと思うのだが、気のせいか。
いくらラノベでの技巧やらに目をやっていても、その作品を楽しむことができていないなら何も得ることはできない。小説の魅力は読んでいる時間のみに存在する。読んでいた時間のことを思い出せないなら、それは無意味になる。

純文学とエンターテイメント小説(ラノベ含み)を比べる人が居るけれど、なんていうのかな。やっぱり区別する必要はない。読者の仕分けとしてのジャンル分けは必要だろうが、小説自体の価値は変わらないはずだ。であるから、作家という視点から比べることはおかしいのだ。どれどれはどういう作品で~っていうのは、さっきも上で述べたように、かなりアバウトな傾向に過ぎない。純文学なのかエンターテイメントなのか良くわからないような小説もあると思うし。
ワナビたちが嫌ってる純文学についてだが、お前らは親の庇護の中で遊ぶ仔犬みたいなものだ。純文学のじのじもわかってない。というより、わかる必要がないのかもしれないが。お前たちが嫌っている本当の理由は、それを知らないからだ。知らないけれど、純文学ってオナニーという無根拠な意見を鵜呑みにして、純文学はオナニーだから大嫌いです>< とか言いやがる。そして、ラノベはエンタメだから至上、とか抜かす。アホだ、アホ。つってもまあ、最近はこの手の人を見なくなったけれども、どれにしても同じことだ。純文学はまったくオナニーでもなんでもないし、逆に閉塞されたラノベのほうがオナニーっぽい。「集団オナニー」だ。
別にオナニーしてる人を否定はしない。気持ち悪いとは思うけれど。
そして、ラノベ以外の本も読んだほうがいいということだが、これは本当は違う。ラノベ以外の本も必ず数度は読むべきなのだ。そして、自分の嗜好を試すべきなのだ。ぬるま湯に浸かって居たいなら浸かっていればいいが、僕は敵意を示す。見ているだけでイライラする。

とまあ、いろいろ書いてみたけど、ひとまず終わりにしておこう。途中で自分の文体にベルカが写っていたことにびっくりしたけどキニシナイ。

(追記)
あ、ちなみにこれは読書を愉悦のものとして捉えた場合に他ならないことを書いておきます。
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素朴な疑問。

2009.02.18 Wednesday 13:29

うちの学校には国語表現という授業があって、その授業では主に読解(というか、本当は文章表現について学ぶのが目的らしいんだけど)をやっている。そして今日そのテストがあった。学年末テスト。その中で、

次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

むかし、日本人が、土からもらったものはみな、土に返しているときには、川は、よごれるどころか、①いまよりもずっときれいでした。水も飲めました。さかなもぴちぴちはねていました。考えてみれば、②それはふしぎなことでした。でも、土がみな、ごみをしまつしていてくれたのです。

問一 傍線①「いまよりもずっときれい」だったのはなぜですか。その理由を文中から20字以内で抜き出し、「…から。」の形で答えなさい。

という問題があった。
僕はこの問いに、「土がみな、ごみをしまつしていてくれた(から。)」という回答をしたのだけど、クラスメイトの3人は違って、「土からもらったものはみな、土に返している(から。)」という風に答えていた。まったく理解できなかったのだけど、どうやらこちらの回答のほうがわからないらしく、「なんでだよ」といわれたので説明してやっても「それなんか違うんだよなぁ」。逆にわけわからんわ。
この文章は短いから、役割を分けることは可能だと思う。最初の文章が「事象・事実」だとして、次がその具体例、そして疑問から解決。考えてみれば、見事な起承転結だ。
だから僕は当然の成り行きとして「土がみな~」と答えたのにもかかわらず、クラスメイトからはおかしいというか、バカじゃないかとか言われる始末。まあ、別に言われる分にはいいんだけど、単純に不安になったとそういうわけです。
ちなみにクラスメイトの言い分は、「土に返したからきれいになったんでしょ」でした。うーん、わけわからん。

なんとなくしてればいいじゃん。

2009.02.16 Monday 00:40

小説のための小説を書こうと思って、なんとなく書き始めた。あるいは、自己救済のために。
もともと、小説はなんとなく書き始めてはいけないものだと思う。しかし僕にはそういう長距離的思考というのができなくて、いつも短距離を突っ走っている。だから時としてこういうことをやってしまって、前に書いていたものが頓挫してしまう。続ける意思がないのでなければ、飽きてしまうのでもない。保留のつもりなのだけど、いつの間にか頭の中から消えているのだった。

ベルカは吠えたのだろうか。

2009.02.14 Saturday 19:56

小説を書くことは、重苦しく、困難だ。いともやすやすと書けた物を、小説だといっていた自分が恥ずかしくなる。でも、これはライトノベルであっても同じはずではないか? と思う。ストーリー、読者意識、キャラクター、文章表現……。好きだね、って、思わず言いたくなってしまう。彼らのことが嫌であるとかを言いたいのではなく、そうすることが真理だと思っていることが嫌だ。読者を意識されていないから理解できないと思います――開き直って、別に理解したいとも思わないからどうでもいい、とでも思えばいいのだろうけれど、僕はそういう疎外感にたいしては反射的行動を取ってしまう。
理解できないと断じることは、普通はなんてことないというふうに取られるのだろうけど、僕にはそうは思えない。ラノベ書きなのに読者意識してないとかドンダケ~とか言われるような気がするのだ。もっとも、僕は今自分が書いている小説に対してのジャンルを持っていない。純文学という風に言うこともできなければラノベという風に言うこともできず、エンターテイメント、大衆小説という風にも言うことはできないだろう。だから、意識することはない――はずなのだが、意識してしまう。引っかかってしまう。思わず噛み付きたくなる。
論理的に行動するならば、こういうことはやってはいけない。ちゃんと考えて、思考の道筋をトレースして、それで意見を言うべきだ。批判にしても、肯定にしても。だが僕は、暴走する。我慢できなくなる。感情だけで論理を捻じ曲げてしまう。そりゃあ、議論になんかならん。もともと自分を肯定してくれる存在もほとんど皆無なのだから、『白昼夢』(江戸川乱歩)の洋服屋の主人のように、わけのわからないことを言っているようになっているのだろう。僕の場合は彼のように嘘のような本当の話どころではなく、ところどころが捻じ曲がっている話だから、説得力なんかないと思うんだけど。
小説において必要なものはなんだという問いの答えは、必ずしもひとつではない。だから、ラノベ作家志望の人の意見も、正論なのだろう。だが、もしそれが正論なのだったら、なぜ結果が出ない? それほど難しいのか、あるいは、運がないのか、そもそもその論が間違えているのではないのか?
僕は人気取りのために小説を書こうと思ったことも、実際にしたこともないけれど、人気を取るということは、そんなに難しいことなのか、と思う。そういう、理論的な創作は、一種の自己満足を誘発するけれども、結果的に暗中模索してしまうのではないかと、思いたくなる。今のラノベは多種多様化していると誰もが言うし、実際のところ、つかみどころがない。だけど、コツとか、ツボとか、そういったポイントは、どの作品にも必ずしも存在しているものだと思う。たとえばヒロインであったり、主人公の性格であったり、異能力に関してだったり。なんとなくこういうもの、という漠然としたイメージは、いくらつかみどころがなくてもつかめないわけはなく、逆につかもうと思ってつかめるものでもないと思う。
小説を読むのがなぜ楽しいのか。人はなぜ文章を読んで悦楽を得ることができるのか。こうした根本的な問いに答えはないし、いくつか答えが出ていても、それが真実とは限らない。"やったことのある人間しかわからない"領域だろうと思う。僕はやっているのか、やっていないのか良くわからない。僕は本を読むことが楽しいから、本を読んでいる、これだけは真実だと思うのだけど。

さあ、『ベルカ、吠えないのか』(古川日出男)だ。
感想で使いたかった言葉に、『空の境界(上)』(奈須きのこ)の解説(綾辻行人)にある「何だかいやに、かっこいい」がある。無論、綾辻氏が使った意図とは別の意味だ。今作はともかくかっこいい。男の、獣の闘争本能、暴走する力の魅力――そういったものを感じる。あとがきで古川氏は、「想像力の圧縮された爆弾。創作意図を問われれば、ひと言、それに尽きる。そうした爆弾を作りたかった。手ずから製したかった。そのために当時の自分は、イヌに憑かれることを決めた。それも無数のイヌたちに。爆弾はどこで爆発させるのか? いうまでもないが、"現実"世界で。これをフィクションだと宣言したうえで、私はそれを為そうとした。」と語っているけれども、まったくその通りになってるなと、読者の一人である僕は思った。氏が一体どの意図によって文章を書いたのかはわからないけれど、この『ベルカ、吠えないのか』が爆弾であることには疑いを持たない。事実、爆弾だ。イヌという"調教された暴力性"を原料とした爆弾だ。いつ、どこで爆破したのかはわからない。あるいは、まだ爆発していないのかもしれないし、以後爆発しないのかもしれない。しかし、僕はそれが爆弾であることを認める。
作品は、キスカ島に残された4頭のイヌたちから始まって、戦中戦後、そして冷戦へと向かう。その中で、現在(作中の現在であるということ)のストレルカと後に名づけられる少女の物語へつながる。
イヌ史と目される部分は、凄く絡み合っている。イヌたちが、人間たちに翻弄されているにもかかわらず自らが獣であることを自覚しているイヌたちが、絡み合っている。人間たちは冷戦をやり、ソ連、アメリカ、中国などの思惑が錯綜しながらベトナム戦争、アフガニスタン戦争を通過していく。イヌたちもそれに引きずられる形で、かかわることになる。だが、イヌたちは時間も歴史も家系図も必要としない。主人がいて、それに従うだけだ。だから必然的に絡み合うことになる。人間の知りうるモノと、イヌの知りうるモノは違う。むしろ、それ自体が絡み合っている。いつの間にか毛玉のようになるまで絡み合って、切っても切れない、解けないモノになってしまった。
だからこそ、複雑怪奇に捻じ曲がり、因縁がつく。
変わって少女――ストレルカの物語だ。こちらは、ストレルカがイヌになるまでと、よんじゅーなな号がベルカになり、大教主が死ぬまでを描いているのだけど、こちらは馳星周の小説を読んでいるようで気持ちがいい。もっとも、描き方や描く対象は違うけれど、ヤクザやらマフィアやらはやっぱりかっこいいもんだなと思えてくる。
だが焦点はストレルカだ。ストレルカとベルカの物語だ。ストレルカがいかにして"ストレルカ"を名乗るようになったのか、また、よんじゅーなな号がいかにしてベルカと名づけられたか。
ここでまとめのひと言でも、言う必要があるのかもしれないが、特に言う気になれない。僕はこの小説を通して何かを考えたわけでも、何かをしたいと思ったわけでもない。また、僕は進歩性を否定しやしないが、わかった気になって動物愛護だの云々言うのはどうかと思う。まあ、そんな感じ。

ディズニーランドというエンタテイメントアトラクション

2009.02.11 Wednesday 23:53

東京ディズニーランドに行ってきた。家族と一緒に。
それで、やっぱり東京ディズニーランドは、「テーマパーク」という、生易しいもんじゃないなっていうことを、再度強く思った。
日本のテーマパークとして有名なもの(もちろん、ディズニーランドを除く)は、ハウステンボスくらいだろうか。ハウステンボスにも行ったことがある。小学校低学年のころだ。でもディズニーランドのような楽しさを得ることはできなかったように思う。その要因はアトラクションにあるように思える。ハウステンボスは、どちらかといえば大人しめなテーマパークだから、子供時代の僕には、合わなかったらしい。しかし、面白いといえば面白かったのだ。荒波にもまれたり、ホラー系アトラクションでの記憶は、今でも思い起こすことができる。
今回、僕がディズニーランドで見ていたのは、キャストだった。アトラクションも確かに見ていたが、キャストの働きぶりのほうが、より意識的に観察していたように思う。そして浮かび上がってきたのが、エンターテイメントの極意だった。
こんなことを書くと、変な風に思われるかもしれないが、少なくとも今の自分には、ここまでしか到達できていないという意味合いを含んでいる。
キャストたちは、アトラクション運営や清掃、またショーの出演などを行う人たちのことをいい、飲食店ではホールと呼ばれる立場に一番近いように思える。彼らは常にお客に対してアンテナを張っていて、そういう部分を見ると、ホテルマンというような印象を受けなくもない。
普通の遊園地であるなら、このような教育はなされていない。飲食店並の扱いができて、機会の操作ができれば、おそらく合格。これはそれ以上のスキルを必要とされないだろう、というニュアンスである。第一、普通の遊園地に行く客は、そこまで係員に対して興味を持っていない。アトラクションに乗るためにそういう人がいる――というような感覚しか持っていないのではないだろうか。つまりは、係員などに目を配っているような人間がいないのだ。与える側も、与えられる側も。
しかし、ディズニーランドは明らかに違う。与える側にある彼らは、係員を徹底的に教育している(ように見える)。キャストたちは基本笑顔だし、時にはアメリカンなジョークまで飛ばすこともできる。あるいは出発に至るまでの説明のアレンジ、とっさの機転などなど。はっきり言って、彼らだけを見ていても飽きないのかもしれない。特にウェストリバー鉄道やらジャングルクルーズあたりはお勧めだ。
これがいったいどのように作用しているのか――客は無意識にこのトリックによって埋没している。ディズニーランドという存在自体がトリックといえばトリックなのだけど、つまり、エンターテイメントはここまでのトリックを使うことが可能、また、トリックを使わなければならないのだ、ということを訴えかけている気さえする。
テーマパークと言うからには、「テーマ」が存在する。ハウステンボスでは「オランダ」であったけれど、ディズニーランドでは「夢と希望のなんちゃら」だった気がする。
手塚治虫の話をしよう。
僕は結構手塚治虫の漫画が好きで、アトムとか、どろろとか、ブラックジャックやらを読んでいたのだけど、最近になって、彼がなぜあそこまでの(一種のパターン化された)話を思いつけるのかということがわかってきた。彼は悪役を作る天才だった。天才だという表現は、必ずしも当てはまらないとは思うが、とにかく、悪役に関してのストックはかなりあったはずだ。驚くほど、ポンポンとアイデアが出ていて、恐ろしいほどに。だが、彼の作品のほとんどが勧善懲悪であり、倫理に基づいた作品に仕上がっている。正義のヒーローは一人でいい。だが、悪役はかなり大勢いないといけない。逆に言えば、ヒーローを作るのは簡単だが、悪役を作るのは難しいということでもある。悪役がいなければ、ヒーローはヒーローになり得ない。
「夢と希望の」という言葉自体が、すでにヒーローになりつつある。いいところしか見えていないからだ。よって、すべからくディズニーランドのアトラクション、ショーに至るまでが、ハッピーエンドになっている。もっとも、バッドエンドになってどのようにしてアトラクションを降りれば良いのかという疑問は放っておいて、論点はそこではなく、必ず回復に向かっているというところだ。
たとえばカリブの海賊やホーンテッドマンションなどは、とてもわかりやすい構成をしている。出発に至るまでにとにかく怖い演出をやりまくって、「これは怖いのだ」という暗示をかけ、中盤から後半に掛けて、楽しげな方向へ持っていく。だから、あのアトラクションたちは、怖いのではなく、楽しい。
また、ディズニーランドでは起承転結さえ意識する。たとえばジャングルクルーズだったり、スプラッシュマウンテンだったりだ。あるいは、ワンマンズドリームもそうかもしれない。ジャングルクルーズでは、最初から楽しげに始まり、いくつかのギャグを交えながらインディアン、またアジアを流れる河川の神殿などの「不気味スポット」(Badspotとでも言おうか)を通過して、最後にまた安心へ持っていく。スプラッシュマウンテンなんかは、非常にわかりやすい。幾度の落下を経て、クリッターカントリーの話になり、なんとかラビットとかオオカミとかがトムとジェリー並のカートゥーンさで楽しげに過ごしている。だが、なんとかラビットはついにオオカミに捕まってしまい、食べられてしまいそうになる。最後に彼は「茨の下がなんたら~」ということを言って(よくあるカートゥーン的マクガフィン)コースターは「茨の下」へ落下する(あの赤い珊瑚みたいなのはどうやら茨らしい)。落下してからは、オオカミは尻尾を鰐に食べられたりして、なんとかラビットは英雄として帰還する。
非常に物語的である。もちろん、これはすべて計算ずくだ。
さらに恐るべきなのは、キャストの存在だ。
アトラクションの大体に(すべて見たわけじゃないからすべてといわないだけだが)こうした工夫がなされている上に、キャストたちはちゃんと世界観を踏襲し、またアレンジを加えることができる。まあ、これって演技のひとつでもあるんだけど、彼らは世界観を損なうようなつまらないミスを、まったくしない。ほんのひとつも。まるで機械みたいに。
さらに、彼らはアトラクションの運営を、代わる代わるやる。ウェストリバー鉄道から帰ってくると、行くときそこにいたキャストのうち一人しか残っていなかった。
ここで考えてみる。なぜキャストが入れ替わっているのか。本来、上記にあるように、操作員(係員)が変わる必然性はない。だが、おそらくディズニーランドでは、変わる必要があると考えるのが妥当だろう。奴らの頭はどこかおかしいから、そこまで考えているはずだし。
では、キャストが入れ替わると何が起きるのだろう。客の見る目は変わらない。とすると、与える側に何か変化が起きるのだろう。しかし、実際にキャスト自身が意識しているようでもなさそうである。というのも、彼らはおそらく与えられていることものを、できる範囲やっているだけなのだろうと思うし、妙に意識してしまうとうまく行動できないという気がするし。つまり、さらに上の作用があるのかもしれない。
ここまでくると、客の目なんかは問題ではなくなる。ディズニーランド、ひいては、ディズニーリゾートにおける問題になる。キャストが入れ替わる理由、それは、「キャストなんて、アトラクションの邪魔だから」である。
まあ、あくまでも僕が解釈したらこうなった、というだけであり、本当の狙いはこうではない。アトラクション運営に関しては、キャストがどうしても必要不可欠になる。それは当たり前である。いくらコンピュータ制御を施したとしても、ロボットであったら、意味がない、むしろ、反対の方向に向かっていってしまう。しかし、キャストはどうしてもアトラクションの邪魔になる。この邪魔という言葉は、「○○さんがやってるから~」とか、「あそこの眼鏡屋ではラップで宣伝してるから~」ということに対してである。つまり、キャストはキャストに殉じる必要があり、キャストはキャストであって、人間ではないというようなことだ。ここでの人間という言葉は、人格性、個性といったようなものだ。
ここから見えることは、それだけアトラクション、ショーは見るに応え得るものですよ、という表面化しない宣伝でもあると思う。自信の表れだ。
いやしかし、ディズニーランド自体を夢の国にしようとしている運営側としてみれば、幻想化するために必要な歯車のひとつに過ぎないのかもしれない。むしろそちらのほうが有力だろう。

うがった見方をしたわけじゃなく、ただ観察した結果であることをここに書いておかないと、なんだか変に読まれそうで……別にどうでも良いけど。
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