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烏有に帰した野原で

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松浦理英子について、ちょっとね。

2008.12.18 Thursday 23:13

今まで読んできた小説の中で、松浦理英子ほど心が打ち震えたようなものはなかった。
それはもちろん、僕の少ない読書経験の中での話で、もっと言えば僕はまだ女をしらないし、恋人も作ったことがないのに、あこがれた。猛烈なまでにあこがれてしまった。
憧れという意味では、桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」も十二分に憧れる。山田なぎさになって、海野藻屑と一緒に水浴びしたいと思うし、駆け落ちしたいと思う。
ここまで書いてみて、なんだレズ文学にあこがれんのか、という風に自分でも思うのだけどどうなのだろう。
さて、ちょっと松浦理英子のことを調べてみて思ったのだけど、どうやらナチュラル・ウーマンが一番人気らしい。いや、もっと言えば親指Pの修行時代なのだろうけど、最高傑作はナチュラル・ウーマンらしい。
へぇー、というのが直感で、そんなに良かったかなという感想を抱いた。
ナチュラル・ウーマンの内容については、松岡正剛が書いているのでここでは書かないことにする。まあ、松浦作品には良く出てくるレズものでちょっと肛門刺激が云々だよという感じですか。
僕はこれまでに親指P、セバスチャン、ナチュラル・ウーマン、葬儀の日(読書中)と読んできたのだけど、とりあえず一番面白かったのは親指Pで、中でも一番評価するべきだと思ったのはセバスチャンだった。
面白かった、というのはエンタメ的な要素を孕む。それは親指Pが確かに優れた恋愛小説として描かれているからというのもあるし、あるいはサスペンスなのかもしれない。展開が、恐ろしいほど緻密で津波のように襲い掛かってくる。
セバスチャンがなぜいいのか、といえば、O嬢の物語を読んでもらうとよりわかりやすくなると思う。

SMの話をしよう。
僕はSMとは関係性の中に生じると思っている。単純に攻撃的な、あるいは刺激をするのが好きな人がSなのではないと思うし、単純に被虐的な、あるいは受動的な行動をする人がMなのではないと思う。もしそこにSMがあるのだとしたら、SMを愚弄しているようにも思えなくもない。そんなちっぽけなものではないし、もしそんなものなら、二階堂奥歯はカトリックに心酔しなかっただろうと思う。
SMとは保障関係だと思う。きっと皆がわかりにくい(あるいは変態的だと思う)Mを先に言うと、なぜMたちが鞭によって快楽を得るのかといえば、それが罰だからであり、Sによって下されるものだからだ(ここでは便宜上こう表現したが、これが絶対ではないことを後に記す)。なぜSによって下されるものが快楽につながるのかということは、罰について考えると容易にわかるはずだ。罰とは、下されなくてはならないものではなく、下すもの、そして下さなくても良いものである。これは定義ではなくて、法律や歴史を考えてみればなんとなくわかってもらえると思う。キリストがなぜ処刑されたのか、あるいはソクラテスはなぜ毒を飲んだのか。そして、MはSだけによってしか快楽を得ない。その他は暴力だからだ。ここら辺はO嬢の物語を読むと非常に良くわかる。
SはMを罰するというよりも、Mの態度によって保障を受けると思う。Mが罰せられることを容認していることからだ。普通の人間は痛みを嫌う。それは当たり前だ。痛みとは信号であるし、その信号が出るということは危険であるということを示しているから。だが、Mはその痛みを受け入れる。羊水のような温かさを得る。おかしな話だと思われるかもしれないけど、これはかなり魅力的なことだ。
結局、SとMはその二人の関係性によって現れるのだ。セバスチャンには顕著に、ナチュラル・ウーマンでも見られる。
SとMは利害関係が一致している。どちらも片割れを捜し求めているのだ。だから、Mが主人であるということがありえるのだ。これはナチュラル・ウーマンの「いちばん長い午後」で出てくる。

一つ前の記事で、SMとは主従関係であるということを示したけど、これは新しい発見でも何もなくて、あそこではそうしたほうがわかりやすいだろうと思ったからに他ならない。
さて、僕がなぜセバスチャンを一番だとしたかといえば、とりあえずSMの関係がこれでもかっというほどキチンと書かれていたから、というのがあるかもしれない。僕はどちらかといえばM的人間だし、仔兎のようなさびしがりやだから、SMという関係に憧れているのかもしれない。ついでに僕はあまり人を信じられないでいる。
信じることができない状況とは、なかなか寂しいし何より孤独に陥る。だからこそ、セバスチャンに魅力を感じたのかも知れない。

僕は松浦理英子を読んでから、ペニスが嫌いになった。はっきりと、だ。前々からAVのフェラチオの部分だけはどうも嫌で嫌でしょうがなかったのだけど、これで原因がはっきりしたように思う。詳しくは親指Pを読むとわかりやすいと思う。純文学苦手な人、もしくは読書に慣れていない人は親指Pから読まれることをお勧めします。僕も親指Pから読んだので(もはや入門書という気すらする)。
かといっても、一番興奮してしまうのは挿入部なのであった。結局性器主義じゃねぇかといわれそうだけど、AV自体が性器主義的に作られているし、何よりほかに見る部分がないからしょうがなく、再生バーを進めてしまうのだけど。一番好きなのは女性のオナニービデオです。

麻希子と背理はSMの関係にあると思う。実際そのように描かれていると思うし、麻希子は無自覚であっても、背理はわかっている。だからこその行動を、彼女はしていると思う。麻希子はそう接せられることに喜びを感じている。最後に背理が放った一言に、僕は感銘を受けたのだった。

面白いということが、それまでになかったことということを内包するということは知っているけれど、松浦理英子の小説は心のうちにあった感情に付箋をつけたようなものだと思った。あぁ、こういうこと。そうだ、こういうことだ、という喚起が強く起こったから。
だから僕にとっては大切な作家になるだろうということははっきりしている。
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少女とは知らない存在のことである

2008.12.15 Monday 22:52

少女という存在がなぜ魅力的なのかといえば、オタクたちに聞いてみるといいかもしれない。
彼らは処女を崇め奉っているから。まあ、無自覚に、ではあるけど。
もちろん、これは彼らが始めたことではなくて、西洋文化が日本に入ってくるときに日本の価値観が消えてしまった、あるいは遅れた価値観とされたことに関係がありそうということはわかったのだけど、そのことを事細かにいう力は今の僕にはないので、とりあえず書き残しておく。
キリスト教の宗旨として、カトリックの聖職者はすべて童貞及び処女でなくてはならない。僕から見たらキリスト教と仏教の目指しているところは同じに見える。人間からの乖離。
僕の使う、「人間からの乖離」とは単純に「人間から離れること」と取ってもらってかまわない。離れるというのは物理的にではなく、属性からの離脱という意味に近い。
彼らが目指しているのは、人間を超えた人間になること=神になることである。この神という名称は、キリスト教では聖人と呼ばれ、仏教では仏と呼ばれる存在に近いと思う。どちらも詳しく知っているわけでないからなんとなくニュアンスが伝わってくれるとうれしい。
そして、「人間からの乖離」を達成するために彼らが何をするのかといえば、性欲を抑え、食事を制限し、"体を清める"のである。なぜ性欲を抑え、食事を制限するのかといえば、性欲とはもっとも必要のない欲であること、そして食事はそこまで重視しなくても生きていられることから。睡眠はちゃんととらないといけない。睡眠は何も生まないからである。
まあ、本当の理由は性欲と食欲をキタナイモノとして捉えているからだろうけど、それは想像力を働かせてもらえるとうれしい。そんなに難しいことではない。
さて、キリスト教的倫理がはびこったヨーロッパでは、処女を神聖なものとして扱うらしい。少なくともその影響力は世の日本のオタクたちに受け継がれている。
二階堂奥歯のブログに、男たちは(おとなのおじさんたちは)少女にあこがれている、とかそういう記述があったと思う。他人の知識を流用するようで悪いのだが、彼女は僕よりも遥かな量の本を読んでいたという。だから文学作品にもそういうものが手にとるようにわかるのだと判断する。ロリータなど、題材からして、あるいはロリータコンプレックスの語源として、かなり有名ではないだろうか。僕はまだ読んでいないけど。
なぜ処女が、少女が可愛く見えるのだろうか。
これを考えたら、少女は知らないからだという結論が出た。
知らないとは、性交、セックスである。
彼女たちは男を知らないから、知らないままでいられる。
男とは、異物だ。男から見て男が異物であるように、女にとっては男は異物であると思う。もちろん、捉え方の違う女性がいるとは思うが、少女とは男を怖がるものだ。自分の股を割られ、血を流し受け入れる存在に友好関係など結べるのだろうか。ペニスは武器であり、異物であり、バイブレーターなのだ。禍々しいもの、あるいは醜いもの。
松浦理英子の小説で、「女は常に準備できているよなー。うらやましい」「だから強姦されるのね」といった会話があったのだが、なるほどな、と思った。また、どこかの伝聞で「女は常に強姦されているのよ」といったことも聞いたことがある。ペニスとは権力の象徴、強さの象徴でもあることが伺える。強姦の同意語で襲われる、犯される、乱暴される、暴行されるなどがあるが、これらの言葉のイメージはすべて暴力=ペニスの象徴と捉えていいだろう。
だから、僕はBLに魅力が沸かない。ペニス自体が好きではないからだ。自分の体についているものを憎みたくなる。なんで付いているんだろう。だが僕は女ではない。性同一性障害でもない。女にあこがれるけど女のまねをするようなことはしない。そんなもの無駄だし、何よりかっこ悪い。それらが神への反逆のつもりなのか僕にはわからないけど、とにかく僕は今男として生きているし、そのようにして生きる覚悟はできている。
さぁ、話を戻そう。
桜庭一樹や松浦理英子は好き好んで(僕にはそう見える)少女を主人公に据える。そして彼女たちは必ず困難にぶち当たり、己の処女膜を破る。そして少女から抜け出す(ことがある)。
処女を捨てることを「女になる」というがまったくなるほどと思わずにいられない。
だが、小説での登場人物はそう簡単に女にはなれない。なぜなら、少女にはさまざまな処女膜があるからだ。そのたびそのたびに痛みを味わい、血を流さねばならないのかと思えばなんだか可愛そうにも思えるが、それは彼女たちが回避してきた道であることは事実である。
さっきからずっと、少女とは知らない存在であると言っているが、なにもこれはセックスだけにとどまらない。セックスだけの限定関係においてのみ論じるのであれば、桜庭一樹の小説に出てくる少女たちは結局女になれなくて少女のままである。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』の主人公、山田なぎさは物語の最後では少女ではないのだ。もっとも、これは僕の自論だけど。
これを普通の人間に当てはめるなら、人はかならず少女時代を味わっていることになる。なぜなら、赤子のころに人は何も知らないからである。言葉は親たちの会話から覚えるし、マナーなども親から、あるいは他人から学ぶ。常識だってそうだ。僕は習得するものと考えているが、それをここで論じるつもりはない。
だから、望むでもなく、少女を皆経験しているはずなのだ。むしろ、少女を経験できたはずだった。それに気づかずに邁進していくことを、そんなに悪いことだと思わない。むしろ少女でいることはあんまり良くないことだと、僕は思っている。知らないこととはつまり甘えだからだ。人に甘えて生きていくと一人で立てなくなる。車椅子に座っていると誰かが背中を押してくれるわけではないのだ。自分の腕で、できるなら脚で前へ進む必要がある。生きるとはそういうことではないだろうか。

少女という存在に、なぜ世の男たちが(あるいは大人のおじさんたちが)夢中になるのだろうか。
これはSMの関係に似ているように思える。
サドとマゾの関係は、完全なる主従関係である。ただ単純にののしる人間がサドなのではなく、同じようにただ単純にののしられて快感を覚える人間がマゾなのではない。もしそういう認識をしているなら改めてほしい。もう一度言うが、サドとマゾの関係はあくまで主従関係なのだ。サドのほうにその意識があるかは別として。
マゾがなぜ快感を覚えるかといえば、主人に必要とされるからである。だからサドは(あるいは主人は)マゾのことを、こき使う。それはマゾの望むことであるからだ。自分から率先してではない。命令されることに本質がある。
そして、象徴的で世間一般的に知られている、鞭打ちなどはあくまでも懲罰に過ぎない。間違いを起こしたら必ず処罰がある。それを表現したのが鞭打ちなのだ。ピンヒールなどはよく知らない。あるいはそういったタイプの一種なのかもしれないが。
さて、少女と男たちの構図を明らかにしよう。
この関係において、主体は男たちにしかない。少女はダッチワイフでもアンドロイドでも画面の中にいてもいいのだ。たとえ紙の上に設定とともに描かれた目が大きくて髪の色がカラフルな女の子でもいい。少女を連想できるような存在であれば、十分なのだ。
彼らが少女に感じる欲望、羨望は恥じらいにある。あるいは、無表情。あるいは怯える様子。あるいは、その態度。
ここら辺はKey以降のKeyに影響されたエロゲなんかをプレイしてみてください。あそこには女がいず、少女しかいないように見える。別にここで論じたいわけじゃないからこの辺にしておくけど、僕はあれがあまり好きじゃない。
男たちは大体マゾヒストだ。だから主人である少女を担ぐことになる。でも時に陵辱されているではないかという声が聞こえそうだが、それなら『ナチュラル・ウーマン』を読んでほしい。あそこには主人であるマゾヒストがいる。

少女というイメージがいったい何たるかを話さずに此処まで論じてきたけど、付いてこれていたら幸いです。
結論からしたら、少女とは一瞬の瞬きであり、流れ星のように変化するものである、といったところでしょうか。オタクたちが熱狂するのは、中高生時代に体験できなかった恋愛の追体験がしたいからではないか、とは思うのですが、そんなことはどうでもいいですね。ともかくも少女を求めたがるのは、カルト宗教がなんだかあることない事言って信者たちを救済しようとするのに似ているとも、いえなくもないことを此処に記しておきます。

つづきはこちら

無題

2008.12.15 Monday 20:35


メモ

2008.12.07 Sunday 02:58

ヒーローは無償で正義を行う人のこと。そして非ヒーロー民は自分より優れた部分のあるヒーローに会うと尊敬する。
無償でヒーロー活動を行える力を持ち、ヒーロー活動を死ぬまで続けることができる。
限界が来ると、その時点でヒーローではなくなってしまう。

学問とか。

2008.12.06 Saturday 01:12

学問を身に着けたい。
武器になるから。信頼できるから。
学問とは価値観であると思う。
"これはこのように解釈する"という価値観。
あるいは、"この現象はここが根源ではないか"という共通認識。
いずれにしたって、個人のものは学問ではない。
哲学者などは、哲学というベースを発展させているのだ。
つまり、その発達の仕方は科学に非常に似ている。
精神分析学になるともっと色々な派閥に分かれて複雑化するけれど。
学問が武器になるって、一体どんなことだと思う人があるかもしれない。
でもこれは簡単なことで、常識をもう一つ増やすというだけ。
日常の中で自然に構築されていき、大抵の人が身につける常識。これは学問といえるはず。
なぜなら僕が常識を学ぶ側に立っており、常識というものをつかめないで居るから。
んまあ、常識なんて要らないんだとは思うけどね。
でも世間で生きていくためにはきっと必要だろうから、取得しておいて損はないとは思う。
なぜなら、大抵の人は、すべての事象を常識によってメスを入れる。そしてその開いた部分から事件を覗く。
これが他の学問になると、見方が変わる。つまり、メスを入れる場所が変わる。だから解釈が変わる。
学問とは、教わるものだ。アレンジするものではない。
なぜなら、学問は共通認識であるからだ。一種の常識である。
これが個人の極個人的な思想になると、メスを入れる場所から見る景色を共有する人間が居ない。
その価値がわかる人間がいないということは、認知されないということと同じだ。戸籍がなければ人ではないといった具合に。
いくら"これは凄いんだ!"と叫んだところで、それは虚しく空に消える。
そう。僕は叫んでいた。誰も居ない河川敷から、できる限りの大声で。
だからこれに気づいた。
このことが認知されることを祈る。
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