少女という存在がなぜ魅力的なのかといえば、オタクたちに聞いてみるといいかもしれない。
彼らは処女を崇め奉っているから。まあ、無自覚に、ではあるけど。
もちろん、これは彼らが始めたことではなくて、西洋文化が日本に入ってくるときに日本の価値観が消えてしまった、あるいは遅れた価値観とされたことに関係がありそうということはわかったのだけど、そのことを事細かにいう力は今の僕にはないので、とりあえず書き残しておく。
キリスト教の宗旨として、カトリックの聖職者はすべて童貞及び処女でなくてはならない。僕から見たらキリスト教と仏教の目指しているところは同じに見える。人間からの乖離。
僕の使う、「人間からの乖離」とは単純に「人間から離れること」と取ってもらってかまわない。離れるというのは物理的にではなく、属性からの離脱という意味に近い。
彼らが目指しているのは、人間を超えた人間になること=神になることである。この神という名称は、キリスト教では聖人と呼ばれ、仏教では仏と呼ばれる存在に近いと思う。どちらも詳しく知っているわけでないからなんとなくニュアンスが伝わってくれるとうれしい。
そして、「人間からの乖離」を達成するために彼らが何をするのかといえば、性欲を抑え、食事を制限し、"体を清める"のである。なぜ性欲を抑え、食事を制限するのかといえば、性欲とはもっとも必要のない欲であること、そして食事はそこまで重視しなくても生きていられることから。睡眠はちゃんととらないといけない。睡眠は何も生まないからである。
まあ、本当の理由は性欲と食欲をキタナイモノとして捉えているからだろうけど、それは想像力を働かせてもらえるとうれしい。そんなに難しいことではない。
さて、キリスト教的倫理がはびこったヨーロッパでは、処女を神聖なものとして扱うらしい。少なくともその影響力は世の日本のオタクたちに受け継がれている。
二階堂奥歯のブログに、男たちは(おとなのおじさんたちは)少女にあこがれている、とかそういう記述があったと思う。他人の知識を流用するようで悪いのだが、彼女は僕よりも遥かな量の本を読んでいたという。だから文学作品にもそういうものが手にとるようにわかるのだと判断する。ロリータなど、題材からして、あるいはロリータコンプレックスの語源として、かなり有名ではないだろうか。僕はまだ読んでいないけど。
なぜ処女が、少女が可愛く見えるのだろうか。
これを考えたら、少女は知らないからだという結論が出た。
知らないとは、性交、セックスである。
彼女たちは男を知らないから、知らないままでいられる。
男とは、異物だ。男から見て男が異物であるように、女にとっては男は異物であると思う。もちろん、捉え方の違う女性がいるとは思うが、少女とは男を怖がるものだ。自分の股を割られ、血を流し受け入れる存在に友好関係など結べるのだろうか。ペニスは武器であり、異物であり、バイブレーターなのだ。禍々しいもの、あるいは醜いもの。
松浦理英子の小説で、「女は常に準備できているよなー。うらやましい」「だから強姦されるのね」といった会話があったのだが、なるほどな、と思った。また、どこかの伝聞で「女は常に強姦されているのよ」といったことも聞いたことがある。ペニスとは権力の象徴、強さの象徴でもあることが伺える。強姦の同意語で襲われる、犯される、乱暴される、暴行されるなどがあるが、これらの言葉のイメージはすべて暴力=ペニスの象徴と捉えていいだろう。
だから、僕はBLに魅力が沸かない。ペニス自体が好きではないからだ。自分の体についているものを憎みたくなる。なんで付いているんだろう。だが僕は女ではない。性同一性障害でもない。女にあこがれるけど女のまねをするようなことはしない。そんなもの無駄だし、何よりかっこ悪い。それらが神への反逆のつもりなのか僕にはわからないけど、とにかく僕は今男として生きているし、そのようにして生きる覚悟はできている。
さぁ、話を戻そう。
桜庭一樹や松浦理英子は好き好んで(僕にはそう見える)少女を主人公に据える。そして彼女たちは必ず困難にぶち当たり、己の処女膜を破る。そして少女から抜け出す(ことがある)。
処女を捨てることを「女になる」というがまったくなるほどと思わずにいられない。
だが、小説での登場人物はそう簡単に女にはなれない。なぜなら、少女にはさまざまな処女膜があるからだ。そのたびそのたびに痛みを味わい、血を流さねばならないのかと思えばなんだか可愛そうにも思えるが、それは彼女たちが回避してきた道であることは事実である。
さっきからずっと、少女とは知らない存在であると言っているが、なにもこれはセックスだけにとどまらない。セックスだけの限定関係においてのみ論じるのであれば、桜庭一樹の小説に出てくる少女たちは結局女になれなくて少女のままである。『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』の主人公、山田なぎさは物語の最後では少女ではないのだ。もっとも、これは僕の自論だけど。
これを普通の人間に当てはめるなら、人はかならず少女時代を味わっていることになる。なぜなら、赤子のころに人は何も知らないからである。言葉は親たちの会話から覚えるし、マナーなども親から、あるいは他人から学ぶ。常識だってそうだ。僕は習得するものと考えているが、それをここで論じるつもりはない。
だから、望むでもなく、少女を皆経験しているはずなのだ。むしろ、少女を経験できたはずだった。それに気づかずに邁進していくことを、そんなに悪いことだと思わない。むしろ少女でいることはあんまり良くないことだと、僕は思っている。知らないこととはつまり甘えだからだ。人に甘えて生きていくと一人で立てなくなる。車椅子に座っていると誰かが背中を押してくれるわけではないのだ。自分の腕で、できるなら脚で前へ進む必要がある。生きるとはそういうことではないだろうか。
少女という存在に、なぜ世の男たちが(あるいは大人のおじさんたちが)夢中になるのだろうか。
これはSMの関係に似ているように思える。
サドとマゾの関係は、完全なる主従関係である。ただ単純にののしる人間がサドなのではなく、同じようにただ単純にののしられて快感を覚える人間がマゾなのではない。もしそういう認識をしているなら改めてほしい。もう一度言うが、サドとマゾの関係はあくまで主従関係なのだ。サドのほうにその意識があるかは別として。
マゾがなぜ快感を覚えるかといえば、主人に必要とされるからである。だからサドは(あるいは主人は)マゾのことを、こき使う。それはマゾの望むことであるからだ。自分から率先してではない。命令されることに本質がある。
そして、象徴的で世間一般的に知られている、鞭打ちなどはあくまでも懲罰に過ぎない。間違いを起こしたら必ず処罰がある。それを表現したのが鞭打ちなのだ。ピンヒールなどはよく知らない。あるいはそういったタイプの一種なのかもしれないが。
さて、少女と男たちの構図を明らかにしよう。
この関係において、主体は男たちにしかない。少女はダッチワイフでもアンドロイドでも画面の中にいてもいいのだ。たとえ紙の上に設定とともに描かれた目が大きくて髪の色がカラフルな女の子でもいい。少女を連想できるような存在であれば、十分なのだ。
彼らが少女に感じる欲望、羨望は恥じらいにある。あるいは、無表情。あるいは怯える様子。あるいは、その態度。
ここら辺はKey以降のKeyに影響されたエロゲなんかをプレイしてみてください。あそこには女がいず、少女しかいないように見える。別にここで論じたいわけじゃないからこの辺にしておくけど、僕はあれがあまり好きじゃない。
男たちは大体マゾヒストだ。だから主人である少女を担ぐことになる。でも時に陵辱されているではないかという声が聞こえそうだが、それなら『ナチュラル・ウーマン』を読んでほしい。あそこには主人であるマゾヒストがいる。
少女というイメージがいったい何たるかを話さずに此処まで論じてきたけど、付いてこれていたら幸いです。
結論からしたら、少女とは一瞬の瞬きであり、流れ星のように変化するものである、といったところでしょうか。オタクたちが熱狂するのは、中高生時代に体験できなかった恋愛の追体験がしたいからではないか、とは思うのですが、そんなことはどうでもいいですね。ともかくも少女を求めたがるのは、カルト宗教がなんだかあることない事言って信者たちを救済しようとするのに似ているとも、いえなくもないことを此処に記しておきます。
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