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烏有に帰した野原で

私設ブログ。 此処で起こったことは此処にコメントしてください。お願いします。

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2026.04.04 Saturday 08:47

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キモイ事件をキモイ言葉で表現してみた。

2008.12.26 Friday 22:31

頸を絞められるのは苦しい。
誰だってそうじゃないかな。脳に血液が回らなくなるし、気管を圧迫されていれば声すら、息すらできない。
3分間そうなったら、人は死ぬ。まあ、その前に気絶するけど。
気絶したら楽になる気がする。きっと見逃してくれる気がする。
それでも見逃してくれないのは、殺意があるからだ。
まあ、殺意も沸くだろうさ。適当にでっち上げて優位に立とうとしているんだから。
そうしたら殺せばいい。首絞めないで心臓でも突き刺してくれればいい。
殺意があるなら、なぜ殺さない。頚動脈を切ったら出血多量で死ぬのに。
殺せないなら、殺そうとするなよ。頸を絞めるなよ。生半可な気持ちでやられたら、また生き返っちゃうじゃないか。
生き返っても、またあなたは僕の頸を絞めるでしょう。
きっと僕はまた変なことをいうだろうし。
でも、殺さないなら、殺せないなら黙っていて欲しい。
殺すなら、残骸を残して欲しくはないな。


慰めて欲しい。頭を手において欲しい。抱きしめて欲しい。
子供みたいに誰かに抱きつきたい。誰かの愛の中に溺れたい。
愛って何だ。僕は疑問を感じなかった。愛という何かがあると思ってた。いや、今でも思ってる。
僕は愛されたい。愛という幻想を抱きたいし、包まれたい。愛という毛布に包まっていたい。
だけど誰も愛してはくれない。誰も僕のことにかまってくれない。
年齢のせいか? 身体のせいか? 男だからか? 女だったらかまってくれる人が居たか?
結局誰からも愛されない。自分で小さいペニスを擦ってみる。そこに何がある?
何もない抜け殻の愛だけでは満足できない。
世界が何でできていようとどうでもいい。
愛して欲しい。

という自慰。
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アイデンティティだってさ。

2008.12.26 Friday 02:42

なんか、アイデンティティを無視して思考する、あるいはアイデンティティを切り捨てることによってアイデンティティを確立するのってある種の境地なんじゃないかという気がしてならない。暗殺者みたいな境地。
僕はそんなことできやしない。常に肌寒さを感じているし、頭をなでてもらいたいし、キスしてほしい。愛がほしい。自分が居ていいという保障がほしい。かなり独善的で子供っぽい。それは自分でも自覚してるけれど、変えたいと思っても変えられるものなんだろうか。変えたいと願うが、たぶん今の僕は変われないだろうし、変えようともしないだろうという気がする。
現代の子供で居ることは非常に楽だ。自分からではなく、親や教師によって指示され、それをこなしていけばいい。なぜならそれが絶対だと思い込んでいるからだ。問題が立ち上がっても対処療法の様に上辺だけで回避しようとしたり(定期考査とか)、親との関係をギクシャクさせたくないから家の中で空気を読んだりしている。できるだけミスをしないように、置くように行動を起こす傾向があるようだ。それは関係を壊して自分が宙ぶらりんになるのを怖がっているように思える。心の中で渦巻く気持ちに蓋をして、とにかく関係を壊さないように、ヒビすら入れまいと空気を読む。見放されたくないという一心ではないか。
だから、指示されるというところにアイデンティティがあると思った。指示されるということは、その存在(自分が他者に認知されていること)を認めているからだ。存在を認めない場合はシカトになる。そんなやつはここに居ない。だから無視することになる。いじめの常套手段になる。暴行を受ける、金銭を巻き上げられるというのは、そこに存在があるからだ。いわば、植民地状態ではないか。奴隷化ともいえるかもしれない。
こういう植民地化、奴隷化がなぜ屈辱的になるのかといえば、自分の財産を奪われるからだ。問答無用に搾取されるからだ。歯向かったとしても、相手に力があればねじ伏せられ、財産を奪われてしまう。人間には社会的欲求というものがあるらしい。誰かの上に立ちたいという願望だ。つまり植民地化、奴隷化は社会的欲求、願望を著しく傷つける。上のものが下のものから搾り取るから搾取というのだと思う。いや、搾るという作業こそ、力技だ。
僕が以前書いたSMの関係もモロにアイデンティティを根拠としていた。なぜなら、社会的欲求、願望が傷つけられていく状態に、自らが望むということを説明したかったからだ。これは僕の経験をもとにしている部分があるため、アイデンティティが根拠になっている。僕がなぜマゾヒストだと思われるのか。それは指示されるからではないか。自分の意思というのがあまりなく、とりあえず人に指示されたものをこなしてしまうからではないか。
僕はやっぱり羊なんだと思う。キリスト教的な羊だ。羊飼いの指示に従っていたいと願う。いろいろなものがわからないから、わかる人物に従っていたい。もはや、これこそキリスト教だとも思えなくもない。全知全能の主に従っていれば、すべての思考に主を置けば、選択肢がいくつ出てきても、どんな難題に出会っても主の思考を持っていれば、選択肢上にない選択すらできる。だが僕には神という存在がなんとなく胡散臭く思えてならない。僕は神を信じきれないで居る。

アイデンティティをテーマとする作品に会うたびに思う。あぁ、みんな探しているのかな、なんて。
ある人が「あなたの最も怖いものは何ですか」というアンケートをとった。「孤独」がダントツだった。

僕は今のところただの高校生に過ぎない。小説家になれる才能のようなものとか、センスのようなもののミジンもないと思っている。だけどなりたいという思いはある。思いだけで小説家になれるとは思わない。だから行動する。でもこの原動力はアイデンティティに他ならない。誰かに認めてもらいたい。その一心で僕はこれまでやってきた。
だから常に僕の弊害となって立ちはだかるのは自分だった。誰かに自分を認めてもらいたいと願うから、自分を表現してしまう。自分の世界という、笑えるようなものを展開しようとしてしまう。自分が作品だけでしか作者を見れないというのを知っているにも関わらずだ。いや、結局知らなかったのだ。経験として知らなかったから、僕は自分の評価を不当と感じていたのだ。
バカらしい話だ。こんなことをこんなところに書いているようじゃ、ただのブロガーに過ぎないというような気がしてならない。

http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-352.html

僕は親指Pの一実に嫉妬する。猛烈なまでに嫉妬する。
映子と会って、愛し合ったから。
僕は松浦理英子がどのような意図を持って映子を登場させたのか、わかっていない。
だから答えは出せない。でも僕は映子に会いたいと願う。


飯島愛が自宅でなくなっていたんだと。
テレビで見ててなんか変な感慨が沸いた。
思わず出演ビデオを検索して見てみた。
一人のAV女優がそこに居て、そのAV女優はなかなかナイスだった。
僕はどちらかといえば感受性が鈍いほうだとは思っているけどウィキペディアにある芸名についてのところを読んで思わず涙ぐんだ。
愛されているという認識を得るのは、大変なのかもしれない。
ご冥福をお祈りしますという言葉が、とりあえず言っておけばいいというような言葉になっていて、嫌だ。
天国で~ というのも同じだ。お疲れ様でしたというのも。
だから僕は何も言わない。父にも何も言っていないから。

ほにょほにょ

2008.12.22 Monday 01:56

No Life Ninjaは、新たな視点を手に入れた。てれってー!

なんとなくつかめてきたの。I氏よ。教えてくれてありがとう!

神とは何か、また、キリスト教とは何なのか

2008.12.21 Sunday 23:03

ここではキリスト教、あるいは神のことをすべて言うことはできないでしょうし、僕の年齢的にも不可能ではあると思うので、今頭の中で蓄積された言葉をすべて吐き出す(できるだけ書いていく)ということをしていこうとしている次第であります。

ゲルマニウムの夜の巻末に、「神を信じるのか」とかいう花村萬月と小川国夫の対談が載っていた。僕は今日が日曜日であるから、当然のように教会に行ってその教えを半ば頭で分解しながら聞いてきたわけだけど、彼らの捉えている宗教観と僕の教会にいる人々の宗教観が形的には似ていて、とにかく何かしてアウトプットしなければと思った。
僕の意見を端的に言うのなら、宗教なんて(あるいはキリスト教なんて)SMであるということです。むしろ、Mたちが集まって一人の主人から餌をもらうためによだれたらしながら尻尾を振っているようにしか見えないということです。彼らにとって重要なのは、愛するものになるためでも、自らの信者を増やすことでもなく、自分が神によって保障されているということを知っている、あるいは結び付けていることを確認できるようにしておくことだと思えてなりません。彼らの根底には「自分とは無意味な存在だ」というような孤独感が多くを占めているようで、それを埋めるために入信していると言っても過言ではない気すらします。
クリスチャンがなぜとげとげしくないかといえば、とげとげしくする必要がないからです。マゾヒストは我を失います。または、主に帰します。つまり、主=我であり、我=主であろうとするのです。そうすることが信仰であると、僕は思います。
なぜこんなことを思ったのかといえば、そのメッセージが暗にそういうニュアンスを孕んでいたからに他なりません。
「神は、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは民が一人として滅びることがなく、永遠の命をもたらすためである。」
聖書の一説。いつの間にか刷り込みのように覚えていたものなので、少しの違いはあるかもしれないが、これが端的に示されているだろう。
キリスト教は、唯一神教である。つまり、一人の神しか存在せず、絶対的な権力を保持できる。なぜなら、神は全知全能の神であり、王の王、主の主だからだ。
そして神は慈悲深い。新約聖書に入るまでは洪水を起こして街を水没させたり、宇宙からの破壊光線か何かでまた街を焼き払ったり人を一人塩柱にしたり、とにかく自分の意に沿わないものは滅びや怒りを与えていたのだが、神の御子、つまりイエス・キリストを世に誕生させてからは、それが幾分か穏やかになり、ついにその御子が死ぬときになると許しを請えば許してくれるほどに寛大になった。いかに罪を犯していても、神を信じ、その悔い改めをするのであれば、誰でも天国へ行くことができる。これが商業的に発展してしまうと免罪符になってしまうのだけど。
クリスチャンがなぜ神を、イエス・キリストを信じるのかといえば、神が私たちのことを愛してくださるからだ。いつでもどこでも神様は私の隣にいて、微笑んでいてくださるからだ。ごめん、わらっていい?
僕はクリスチャンだ。洗礼を受けたから。だけど、神様を隣に感じたことなんてないし、クリスチャンになってから何が起こったということもない。祈りの時間は苦痛だ。みんなが流暢に語る言葉が口を突いてでないからだ。それはもちろん当たり前で、僕は祈りに慣れていないし、そもそも祈りなんてものが届かないものだということを知っているし、それがほとんど自己暗示(あるいは単なる暗示)めいた行為であることも知っている。ブックオフなどで見かける威勢のいい「いらっしゃいませ」と同じようなものだ。彼らのする祈りという行為は、自分が従順な奴隷であることを示している。自分は竿にも掛からないほど無意味な人間でそれを見捨てないでいてくださる神様はやっぱり偉大ですばらしすぎてもうまぶしすぎるほどで、だからそんな神様から力をもらえたら私たちは凄くうれしい、というような意思表示にも見える。
証しをするときもそうだけど、かならず自分を卑下する。こんなこんなで、自殺未遂なんかもやってもう鬱屈して目つきも悪くなって誰も相手にされないことが哀しくてもうやりきれなくなったときに神様に出会って……。
あぁあぁ、もうやだやだ。やってらんねー。
結局はあそこにいる人たちは途中で思考を放棄して、なんだかとにかくもうすがれるものにはすがりたくてしょうがないようにまでなって、その結果の神様であり、占い師であり、江原啓之なのだろう。結局こういうものにすがってしまう人たちは、何てことないのかもしれない。テレビでたくさん見るじゃないか。本屋でたくさん見るじゃないか。悩んでるんだけど、悩みたくないんだ、彼ら、彼女たちは。だから自分の答えが出せないまま悶々として、あるいは答えを出したくないがゆえに悶々して、救い主を待つんだ。惰性だ。
僕は強くないが、考えることはできる。感じることはできる。生きていることはできる。だからこのままで居たいと思う。

世はクリスマスで浮かれだっている。別にどうだっていい。僕はもはや精神的な意味ではクリスチャンではないかもしれない。でも祈るときや賛美するときはちゃんとやる。それは僕が主を求めているからかもしれないが、主を本当に信頼することができないからなのかもしれない。聖霊によるバプテスマだとか、奇蹟なんて本当に経験したことはない。ましてや、信じるということを、肌で感じていないのかもしれない。冬は暖かくても、やはり肌寒い。

知ること、知らないこと

2008.12.20 Saturday 00:45

小説家になるためには、知る必要があるのかといえば、僕はそうではないと思う。僕は小説家ではないけど、彼らがすべてを知っているわけがないし、何より深く知るということはありえないと思うからだ。深く知ると形容、表現されるもののすべては思考によるものであって、知識はあくまでもその補助にしかならない。あるいは、広く知る必要はない。何かひとつの分野において、あるいはひとつの視点において極めることができれば、それを使うことができるだろうけど、そこまで行くのに、またどこまで行けばいいのかということは、もはや感覚によって捉えられなければならない範囲であり、他者がどうこう言うものではないと思う。なぜなら、脳の中身はその持ち主しかわからないからだ。行動や言動は、その一端に過ぎない。
なんでこんなことを書くことになったのかといえば、単純に僕が知らない存在であるというのが根底にある。以前書いた「少女」という存在よりも「童貞」といった表現のほうが合っているだろう。この二つの属性の差異は、「知らない」ことについてリアリティを持っているか否かというところにある。少女がオナニーしていたらちょっとえーっとなるが、童貞がオナニーしてもそりゃ童貞だもの、となる。これはイメージが作用するところで、少女には軽い潔癖のようなものがあって(大陰唇のような)、童貞にはそれがなく、むしろ恥垢といったような(チンカス)穢れたイメージが根付いている。そのことを上のように表現したのだが、どうだろうか。これを最近、僕が経験したことによって寄せられたコメントを使うと、少女は痛々しくなくて、童貞は痛々しいということになる。
痛々しいというのはどういうことかといえば、知ったかぶりである。少女は性交自体にリアリティを持っていないから、オナニーをしない(イメージ上の話です)。あるいは、性的興奮、快楽を知らない。だが、童貞は性交にリアリティを持ち、性的興奮、快楽を知っている。だからセックスを決め付ける。知ったかぶりというのは、知ったつもりという意味であり、つまりは欠損した情報を持っているということになる。
情報というものは、経験だと思う。ネットでPOSOという動画があるようだが、それを見た人はぜひ日本人は見ろということをコメントしていた。そこで首をかしげる。こいつら知ったかしてんじゃねぇかと。
確かに、(僕は見ていないけど)宗教紛争での映像らしいし、かなりグロテスクとかの次元を凌駕している、生々しすぎる映像かもしれないが、それは経験ではない。死体の発する臭いや、異物感、あるいは生と死の境界にある体という存在については知りえることはできない。僕は臭いを経験したことはないが、霊安室に横たわる父の姿を見たことがある。ただそれだけではあるが、僕は死について少し近い位置にいたという自負がある。
僕はキリスト者でもあるから、信仰体験だとかいうものとか、聖霊のバプテスマというものだとかを目の当たりにしたことがあるが、あれすらも理解することができない。なんで一様に、いかにもそのようにして見たというような行動を起こし、泣き、笑い、動けなくなるのだろうか。それが信仰なのだといえば、僕は信仰をまったく持っていないということになる。あるいは、端から人のことなんて信用していないのかもしれない。
わかっていない、という形容詞はわかっている人間たちからわかっていない人間に送られる言葉だ。その人単体がわかっていると主張しても、同じようにわかっていると主張している人間とほとんど同じ意見でなければ、この言葉を使うことはできない。人間にクローンはいず(あるいはクローンがいたとしてもそれがまったく同じ思考をするのかという保証はない。人間一人でさえ、軸はぶれる)、絶対なんてものは存在しないからだ。
もうここまでくると僕のコンプレックスの発散になっているような感すらあるけれど、続ける。
僕は、自分がわかっていないとされることが、嫌で嫌で仕方がない。何の権利があってそんな言葉が吐けるのか、まったく持って疑問だ。僕もそういう言葉を発するかもしれないが、発したとしてもちゃんと説明をすると思うし、ある種のガイドラインめいたものも提示する。もちろん、これは僕の場合である。実際にはもっと違うのかもしれないが、わかっていない僕でさえもわかることなのだから、わかっている皆さんにわからないわけがないはずだと思う。僕がなぜ嫌なのかといえば、そこで止まってしまうからだ。誰もガイドラインも、解説も、何も加えてくれない。知らないやつは知っとけよ、というような宿題にされる。僕は宿題が大っ嫌いで大っ嫌いでしょうがなくて、ほとんどやらなかった。だって、一人で解く分にはプリントで事足りるし、そこでわからない部分があったら教師に聞けばいい。それでどんどん問題になれていって、覚える、あるいは知る。僕は基本的にこういうスタンスを貫いている。家で一人でやるなんて、まっぴらごめんだった。知らないのにできるわけがない。
音符が読めない人に、ヤマハのエレクトーンやピアノの実技試験の初見演奏をやれといわれても、正確に、滑らかに弾ける人がいないように、またヒントのない数独(オール空欄)に答えがないように、プロセスや情報を知っていなければ頭は考えることを放棄する。どうせやってもわからないし、どうせやっても間違っているからだ。
正解がそこにないのなら、やるだけ無駄であると思う。ことに勉強においてはそれが言えるはず。勉強なんて、正解が一つしかないから、解答法、あるいは解答を知っていれば解けるのだ。つまり、その部分だけを知っていれば、あとを知らなくていいのだ。こういう考えをする人間が、試験前に勉強して定期考査ではいい成績を残し、模試では散々な結果に見舞われるのかもしれない。
僕は張りぼての知識というものが大嫌いだ。数日たったら数週間たったら忘れてしまうような知識なんていうのは忘れてしまったほうが良い。それはきっと血にも肉にもなっていないからだ。勉強において血にも肉にもなっていると感じるのは、問題を見ただけですぐさま解答が書ける状態だろうか。設問はちゃんと読むことに越したことはないが、問題文を見ただけで大体どのような意図で載っているのかというものかはやっぱりわかるときはわかるのだ。それもやっていなければ風化してしまうけれど。
思考においては、正解というものはないらしいが、どうにもそれがあるように思えてならない。または、本当に突き進めて行ったらということなのかもしれない。ほかの作家志望の人たちが思っているようなレベルではおおよその正解のようなものが見えていて、それと違うから違うと言うのかもしれない。もしそうだとしても、それはそれで気持ちが悪い。それに到達できていないから作家になれないというわけではないのだ。
僕は自分のことを痛々しいとは思わない、あるいはそんなことを気にしてはいない。痛々しいと思うなら痛々しいと思っていればいいし、痛々しいと思っていることこそ痛々しいのかもしれない。

とまあ、ちっちゃいペニスをできるだけ勃起させてかいてみたけど、結局ちっちゃいペニスのままという気がする。別に痛々しいとかいう風に思うのなら痛々しいと思っておけばいいと思うし、愚弄したければ愚弄すればいいと思う。でも人が主張していることを頭ごなしになんだよ、てめぇわかってねぇんだよ、という風に大きな顔をされると、こちらとしてはむっとせざるを得ません。もしそういう作家志望がいるのなら、早くデビューしたらどうなんだろう。できないなら、あなたも僕も同じだから、ね?
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正直に書いても意味ねージャンということで生年月日は抑えとこっと☆

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