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烏有に帰した野原で

私設ブログ。 此処で起こったことは此処にコメントしてください。お願いします。

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このまえのいざこざについて

2009.01.08 Thursday 15:37

言葉は常に浮いている。なぜなら、発信者と受信者から、それぞれ乖離しているからだ。
そのひとつの例が小説ではないか。あるいは詩ではないか。
以前、イラストと小説の違いについていくらか討論めいたことをやったことがあるけれど、やっぱり僕の意見を反論したあの価値観は、間違えているのではないかという気がしてならない。
まずひとつに、イラストと文章のサイズ差がある。
あそこで僕の敵側になった人たちの言い分では、イラストと文章で比べるなら、1枚と1文で比べるべきだという。いまさらわかったのだが、これはまったくもっておかしい。おかしいといわざるを得ない。
そう思っている人は情報の密度やら、量やらについて考えたことがないのだろうか。いや、しかし彼らは絵画は1枚なのに情報が詰め込まれてる、すごい! というような旨の発言もしていた。そういうわけではないらしい。じゃあ、なぜあんなアホなことを言ったのだろう。
イラスト1枚が持つ情報量に、文章1文が持つ情報量が勝てるわけがない。こんなものは、比べるより明らかだ。通常、文章1文では、ひとつかふたつの情報を入れたら文を終わらせている。続けていたら何が書いているのかがわからなくなるからだ。混乱が少ないように、文章では意図的に情報を制限している。例外はあるだろうけど。
さあ、ぶち壊そう。
まず、認識するのに時間差がある。いくらイラストが1枚の絵なのに情報量が(ryと言っても、それを瞬時に理解することは不可能だ。まさか、それを知らないで語っていたわけではあるまい? 通常、人間は、自らの興味の有る対象について目が行く。たとえば顔だとか、手だとかだ。背景はその次であることが多い。モナリザなんかを見てもらえばわかるだろう。実は、あれの背景の水平線はずれているのだ。僕は去年まで気づきもしなかった。すべてはダ・ヴィンチ・コードのおかげである。
なぜモナリザの背景の水平線がずれているのかに気づかないのかといえば、肖像画とか顔面や胸部を見るものという風に捉えているからではないか、むしろ、それ以外はつまらないとでも思っているのだろう。とりあえず顔! 手! みたいな。
そう考えると、文章と似たような部分が出てくる。正確に作品を読み取るには、更なる情報をさぐる必要があるのだ。絵画の場合には認識の遅さ(あるいは注意深さ)であり、文章の場合には情報の補填である。
さて、これによって絵画1枚=文章1文というアホ論理は崩壊した。絵画には深さがあるのだ。

さらに言えば、僕の言っていたイラストというのは、オタク文化的な、同人的、あるいはラノベの挿絵などのイラストについてであって、絵画ではない。なのに絵画を持ってくるから困る。オタク文化的なイラストについて言えば、彼らの目的は顔、胸、脚、服装、翼などをどのようにして、いかにそれっぽく描くかというものであるという風に思っている。大体において、他の情報がないからだ。大抵舞台は外であることが多いし、空、夕焼けなどの背景が多いだろうか。あと真っ白な背景とか。そんなようなものに関して言えば、それは考えて書いているといえるのだろうか。ただ書いているだけではないのか? どこにエンターテイメントがある? ただあるだけじゃないか。萌えるだけのエンターテイメントに考えている考えていないなんて関係があるのか? ようはそれっぽい美少女を書いて、それっぽく演出すれば完成ではないか。それのどこを読み取ればいい? ただのそれっぽいイメージの具現なんて、「それっぽい」だけの、保守的な価値しか生まない。
僕はオタク文化に対して否定的な立場でものを言っているつもりはない。これは忘れないでほしい。

主題がかなりゆれているけど気にしない。
あのときのいざこざの原因は、僕の言動にあるらしい。僕はまったくもってそんな風には思わないのだけど、きっと彼らは発言者と言葉を同一のものとして捉えているのではないか。
発言者=発せられた言葉というのなら、嘘を言えばそれが違うことになる。あるいは、メタ言語の話なのかもしれないが、メタ言語ならなおさらそうなる。メタ言語というのは、受信者が勝手に思う幻想だ。
僕はこの幻想を信じていない、というか「聴いていない」らしい。だから、メタ言語で話されても聴く耳を持たない。だから、風月堂さんが「私の言っていることが間違っているんでしょうか」的な発言をしたときは死ねばいいと思った。あるいは、わけがわからなかった。僕が翻弄していたというようなことを言っていた気がするけど、翻弄しているつもりはなかったし(優位に立っていたにせよ)、むしろ自分の意見を聞いてほしかったのだ。僕は基本的に、人に悪意を持たないゴキゲンなやつである。
そして思うのだ。やっぱり受け取るほうにも問題があるのだ。もし発信者だけが悪いのだとすれば、自分の意見をちゃんと僕に伝達できなかった風月堂さんも悪いということになるはずだ。だが、そうではないらしい。あの人はどうやら悪くないようである。まあ、僕が異端だからかもしれないが、それはおかしいことになるまいか。僕は自分の思っていることを言葉にするときにそれが完璧である自信なんてないし、それが相手に伝わるとは思っていない。伝わったらいいなぁという風にして言葉を選んでいる。にもかかわらずそれを批判されてしまうと、我慢ならないというか、無理である。批判されるということはきっと直せということだろうし、悪いことに変わりはない。だが、こちとて、「伝わると思って」選んでいるのだ。こっちが相手の意見を理解できなくても同じではないか。

論理的な問題は、また別として。
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ぱわーがない。

2009.01.07 Wednesday 21:24

ぱわーがない。ぱわーがないよ。
ガゼルが持ってたぱわーがない。
こんなネタわかるの極少のニコ厨だけだよとか思いたくないけどきっと伝わらない。
うぅ、ぱわーがない。
思いっきり嘆きたいけどそれはキモイ。
そうか、思いっきり服つかみながらすがればいいのかな。それもキモイ。と思う。
人は、醜い姿を出したら嫌われちゃうんだよ。だから、キモイ。
でも、そういうのを嫌わないというのが、愛情なのかもしれない。
ってか、愛ってアイデンティティを補強したいと思う感情、行動じゃね?
そんなたわごと。

エロティカルナイトおもしれー。最後のヴァリアブルアイテムが取れない。

あけおめ。

2009.01.06 Tuesday 22:21

 不幸だと思うことがおこがましいと感じたのは、ミサキに会ってからだった。ミサキはいつも笑顔を絶やさないで常にみんなの中心にいて、よく勉強もできたし、部活のテニスでもレギュラーだった。彼女にはすばらしい彼氏――レン君がいて、他の誰から見ても、ミサキはなんて幸せに生きているんだろうという風に思わせるほど、彼女は明るく元気に過ごしていた。
彼女は私のクラスメイトで、意図的に孤立している私に積極的に接してきたから私も彼女の虜になってしまった。他のクラスメイトといったら、私がつっけんどんな態度を取っただけで怖気づき、一度話しかけられたらそれ以上話掛けられることはなかった。
「エリー!」
読んでいた本を伏せ後ろを振り向くと、肩で息をしているミサキがいた。彼女は下げていた頭を振り上げると、「ねぇ、文化祭なんかやろうよ」と言い出した。
「文化祭? みんなやりたくないんじゃないの? モチベーション低いし」
クラスメイトたちは、ミサキが教壇の上に立っているときもだるそうに体を伏せたり、机の下でゲームに興じていたりしているのだった。そんな状態を見ていたら、たいていの人間は、こいつらやる気ねぇな、と思うものではないか。
「そこをなんとか。エリは本当はやりたいんでしょ? こういう学校行事」
そんなことを言われても困ってしまう。私の内心はどっちつかずで私自身にもわからずにいるのだ。やりたいといえばやりたいが、犠牲を払ってまでしたいとは思わない、といったところか。私はいつの間にか難しい顔をしていたらしく、「んー、まあ、やりたくなければやらなくてもいいと、私も思うけどね。ただ、私たちが主体で文化祭やれるのって、今年が最後じゃない? だから、せめてやれたらなって思ったんの」とミサキは苦笑いした。あまりの優等生的な発言で、天晴れとでも言いたかった。
「ねぇ、ミサキ、それ本気で思ってるの?」
と私が口に笑みを浮かべながら訊ねると、彼女はいたずらな笑いを湛えて、「バレたか。やっぱりエリには隠せないなー。もちろん口実に決まってるわ。大体、文化祭の出し物をやらないだなんて、江戸っ子としては許せないのよね。だから力づくでもやりたいのが本当よ。でもそんなことしたら子供の夢を壊しちゃうようで、なんか嫌じゃない? だから理性的に訴えかけてるんだけど、これはどうも実力行使しかないんじゃないかって気がしてるのよ」
「だったらそんな老獪な先公が言うみたいな言い方じゃなくてもっとクリエイティブな言い訳にすればいいのに」
「たとえば?」
「そうだなぁ。"先生たちが文化祭の出し物を評定に加点するって言ってたよ"とかは?」
「それは先生に聞かれちゃったらおしまいねぇ。うちの先生って融通聞かない人ばっかりだから、"そんな噂を流したのは誰だー"ってなりそうね」
「まあ、そんな過激でナイスな先生たちだったらもっと学校生活は楽しいんだろうけど」
私が肩をすくめると、ミサキも本当にとでも言わん顔をした。
「あいつら妙に冷めてんのよ。自分が受験するわけじゃないとか思ってるんじゃないでしょうね。もしそうだとしたら、最悪だわ。わかった気になって結局何もしないんじゃ、意味ないじゃない」
「おおー、優等生なのに言いますねぇ」
「優等生って、言わないでよ」
目をやめてくれという風にして、ミサキは言う。彼女は優等生という言葉を嫌っている。それなのに私が使うのは、それが私なりのスキンシップだからだ。これが私でなかったら、いったいどうなるのだろうか。もしかしたら泣くのだろうか。私は彼女の泣き顔がなんとなく見たくなった。しかし彼女はそう隙を見せるわけじゃなかった。レン君のことに対してもそうだけど、彼女自身が、自分のプライベートに関して免疫を持っていないようだった。だからそういうプライベートな話題を自分からしようとはしなかった。仲間内で起こったときは、少しは言うのだけど、他のメンバーほどぶっちゃけやしない。
「でもいいじゃない。みんなからは優等生って思われてるんだから」
「それが嫌なのよ。みんなみんなみんなみんな、何でそんなに私を優等生って見るのよ。私は全国模試1位でもなければ、オール5を目指してそのために生活してるわけでもないのよ? 家では普通にゲームするし、電話するしメールするし、みんながしてるように恋だってしてるのに、なんでみんなは私のことを優等生って言うの?」
「それはあなたが無意識にそういう風に見せてるからじゃないの?」
「えっ」
彼女の驚嘆と同時に鐘が鳴って、私たちはそれがなり終わるまで見詰め合った。顔を動かすことができなかった。鳴り終わってから、また今度話ましょうと言って、彼女は自分の席に戻った。

なんか書いてみた。でもきっと書き直すんだろう……語彙をください。

昨日の続き? 反省?

2008.12.28 Sunday 21:03

昨日は書きすぎた。もちろん自分についてが。
元はといえばどうでもいい話だし、ただネットに浮遊している人々の中の一人だし、誰かの中の一番というような人間でもないから、本当にどうでもいい話だった。

今日は福田元首相が言い放った言葉について。それはつまり、「私は自分を客観視することができるんです。あなたとは違うんです」とかいうものなんだけど。
なんとなく、今日ぼんやりと考えていたのは、自分を客観的に見ることができるというのは、成立するのか、ということだった。
僕はあの会見をリアルタイムで見ていたりしたんだけど、妙な違和感を感じたのを覚えている。え? この人何言ってんの、とでもいうような。それを軸にして考えたわけではないのだけど、自分なりに考えた答えは、自分なんて主観的にしか見ることができないということである。
客観的、という言葉があるが、まず客観とは何なのだろう。
きゃっかん‐てき〔キヤククワン‐〕【客観的】
[形動]

主観または主体を離れて独立に存在するさま。Z5192.gif主観的。

特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」Z5192.gif主観的。
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]

Yahoo!辞書で調べると以上のような答えが出た。だが、本当にそうなのだろうか、という気がしてならない。僕はどちらかといえば空気の読めない人間で、また時々常識が通じなかったり、あるいはミーハーだったりするのだけど、どうも、この客観的という言葉を本当に知っているのかがわからない。感覚として、僕に客観的という概念があるのかどうかが、わからない。
僕は、自分がほとんどのものを主観的に評価していると思っている。すべての意思・価値観を自分で決定しているという風に思っている、ないし考えているからなのだけど、これは果たして間違えているのだろうか。僕のいう間違えているというのは、思考の道筋から外れているのではないかという疑念に近い。僕は非常によく思考を間違えているらしい。言い換えるなら、思考の道筋から外れているらしい。それがなぜ起こるのかといえば、僕の使うロジックにたくさんの穴が空いていて、その穴を埋められていないだとかの問題があるからなのだが、それはここで語る必要がないし、語っても誰も読まないだろう。もとより、読ませるために書いている文章ではないから、非常に無責任になってしまっている。書いている人間の根性、おそらくゆがんでいるプライドとかが直らないとこのままのように思う。
明らかに辞書的ではないのだが、それを無視して、というより、僕は辞書の言葉を体感できていない=理解できていないので、僕なりの解釈で語らせて欲しい。ほとんど勝手にしろというような声が聞こえそうではあるが、ひとまず断っておきたいから断っておく。

僕が思うに、人は主観でしか物事を判断できないと思う。意思・価値観の決定権は自分にあり、つまりは主観的にならざるを得ないからだ。客観的とは想像力なのかもしれない。だが、想像力すら主観的なものだ。いくら経験豊富で神のごとく物事を知っていても、すべての現場は誰も見ることはできない。POSOの様子をビデオカメラから見ても、臭いが漂ってこないというのと同じだ。もとより、ああいう生身の死体はグロテスクというものではないと思う。あれが生身の、生物としての人間なのではないだろうか(日本だって数百年前は死体が道に転がっていたのだ)。動画を見ていないのにこうして発言するところに、ほとほとうんざりきてるのだが、そう思っている。だが、お前は見たことないだろうといわれて、じゃあお前は臭いをかいでいないだろうといえば、相手は反論できるだろうか。あぁ、これも想像力か。実際のところ、五十歩百歩ではないか? 状況の悲惨さから何かを感じ取ったにせよ、文章の内容からイメージしたにせよ、体験できないものは体験できないのだし、それを疑似体験して鬼の首でもとったように"日本人ならば見るべきだ"と主張してもそんなのむなしいだけではないかという気がしてならない。日本人に戦争を語るのを許されているのは、戦争を生き抜いてきた人たちだけであると思う。
だから僕は客観とは主観の集合であると思う。つまり、自分の主観や他者の主観との集合体である。これなら常識というものや共通認識であるものが客観になりえると思うし、多く人と触れ合っていればより優秀な客観を得ることができると思う。僕の客観はどうやらレベルが低いらしい。まあ、僕が客観なるものを意識していないじゃないかといわれれば、あぁ、確かにそうなのかもしれないという気がしなくもない。というより、ものを書いているときは、僕は一人なのだ。いや、みんな一人なのかもしれない。もしそうであるとすれば、単純に僕の推敲不足になる。ならば、困ったものだ。やはり書き直しというものはしたほうがいいらしい。もし推敲不足だけが原因なのなら、書き直していくだけで改善されるかもしれないからだ。
ここでさっきの辞書的な「客観的」という言葉を考えてみる。2の、特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。というのは、あぁ、裁判官か。確かに、裁判官の役割は、この「特定の立場(被疑者側か、原告側か)にとらわれず」というところに合致しうる。だが、ここに穴がある。憲法だ。裁判官は、必ず日本国憲法という土台の上に成り立っている。彼らは日本国憲法上の判断しかできず、それは客観的の言葉の意味における「特定の立場にとらわれず」というものを犯しているのではないか。日本国憲法だって、見事な「特定の立場」であろう。とまあ、ここまで来ると屁理屈になるのだが、ふっと降りてきた裁判官という立場でさえ、特定の立場に立たなければならない。ということは、客観というのは、学問か。学問ならば、狂信者でもないかぎり、「特定の立場にとらわれる」ことはないし、もし特定の立場にとらわれてしまったなら、もはやそれは学問ですらないように思える。だが、まだ大学生にもなっていないようなひよっこの言葉である。こいつが本当に学問を知っているのかどうかというのがここで重要になってきそうだが、僕は学問を無害なもの、また見方(価値観)、また学ぶものとしてとらえている。これで上手く伝わったのかが疑問だが、ひとまずはそういう風に考えているよというポーズでも。ってか、別に裁判官も客観的という言葉を侵害していないんじゃないかという気すら起きてきた。ほとんど修正するつもりはないが、心に留めておいてほしい。まあ、判断するにはある程度の価値観が必要だということも覚えておいていて欲しいけれど。

さて、福田元首相の言葉に戻ろうか。「私は自分を客観視することができるんです。あなたとは違うんです」これにはいささか疑問である。自分を客観視できる? 自分が他人からどう思われているのかというアンケートでもとったの? それともなんか学問的に自分を解釈できたの? 常識で自分を解体した? たぶん、全部うそじゃね? あいつにそんなことができないというわけではなく、あれは辞任会見で、質問は確か辞任時期についてだったと思う。どこをどう解釈するんだよ。お前が勝手にやめたいって言っただけじゃないか。何ヶ月もお前のことをダメだと、世論は言ってこなかったか? お前に変わった麻生でさえ、3ヶ月でおじゃんだ。いや、もしかしたらお前より早いタイミングで内閣支持率がほとんど底に落ちている。安部、福田、麻生。いわゆる二世たち。総じて踏み切ることができず、小泉は引退、内閣支持率は低迷、造反者についてだって甘い。何もできていない。何かを動かそうとしない。不況なのに。日本は危機じゃないのか。へぇー、そうだったんだ。オレ知らなかったよ。まあ、そんなにテレビ見てるわけじゃないし、きっとオレの発言にも少しばかりおかしい部分があるかもしれないけどさ、結局どうなの、仕事するの? しないの? 投げるの?
とか、自分を棚に上げて言ってみたが、やっぱりダメだな。こんなことをするためにブログ書き始めたわけじゃないし、こんなの誰かが書いてるし、それこそオレが書くような文章じゃない。話を戻す。

んで、自分を客観でしか判断できないと書いたっけ。とりあえずココを終わらせるな(ぇ

再度、アイデンティティとかいうのについて

2008.12.27 Saturday 18:01

他人がそれと認めてくれなければ、自分というものは存在しない。
どこかに"自分"が居るということを、他人が認めることではじめてアイデンティティが発生する。
だが、それは要素分解できるものに過ぎない。それこそエヴァンゲリオンでシンジが言ったように、ボクがエヴァのパイロットだからですか、という話になる。
結局のところ、本当の自分なんて存在しない。
恋人なんかが(今日やっていたプロポーズ大作戦だとかで)相手のことを本当にわかっているのか、と言う言葉だって本当はうそだ。自分なんて自分ですらわからない。あるいは、判った気になっているだけにすぎない。
本当の自分って何だ。いくら自分にカメラを向けたとしてもそこに答えはない。この場合の答えは他者にある。他人が"自分"をどのように評価しているか、どのような期待を寄せているか。それだけが、アイデンティティとなりえる。

僕は、自分のことすら信じていない。あるいはすべての可能性を信じている。現実的に考えて不可能なのかもしれないことも、事によっては信じている。ここに僕の愚かさがある、と思う。
他者に認めてもらうことには、まず自分を信じなければならない。自分に絶対の自信を持たなければ、他者が認めるわけがない。中途半端だからだ。行ききれていない。全力を出していない。修正点がたくさんある。価値観の塊にすらなっていない。分散した意識。そんなものは、ただのガラクタだ。芸術なんかじゃない。芸術には一本の筋が通っていて、それをわからせるために絵画だったり小説だったりを用いるのではないか。
おそらく、僕の作品が自慰と呼ばれる所以は、作品自体がありきたりであることと、はっきり行ききれて居ない点にあると思う。原因は、自分に自信がないからだ。人々が常識という共通認識じみた偏見を持って安心することを、僕は嫌っておきながら、ぬくぬくとその中に居たのである。自分が信じられなかったから。信じていいものかわからなかったから。方向がわからない。好きにしたらいいじゃないか。だったらどうすればいいんだ。路頭に迷い、結局前がどっちなのかわからず迷走して、果てに元に戻ってくる。あるいは逆を向いている。
批判されてもこれでいいじゃないかというものがない。批判されたくないという感情が僕の心を支配して、批判されたものに失格の烙印を押す。バカらしい。バカらしいが自分でやっていることだ。
結局筋違いなのだ。
小説に僕がちりばめたと思っているものは、誰にも認知されない。当たり前のことだ。ちりばめるにはちりばめるなりの理由があるのに、僕はその理由を無視してちりばめているのだから。ちりばめたものの回収すらしていない。投げっぱなし。無責任。あほらしい。
僕はかなり忍耐が効かない。本当にこれに関しての才能がない。何とか成し遂げようとする力とかもない。批判されたら折れてしまって、長い間再起不能になる。心の中にあるゴミ箱に入れてしまう。そして何かの拍子にそのゴミ箱を開いて、やっぱりこれいいじゃないかと思ってまたやる。そして批判、折れ、再起不能というループに嵌る。とことん才能がない。
結局僕は、僕の中に僕を飼っていて、その飼っている僕が僕のために楽しめることをやっているのだ。他者がいない。他者になるはずの僕は僕を飼っている。僕の主は僕なのだ。これでは、何をするにも自慰にしかならない。やはり僕は、僕という檻の中から見える世界を僕に表させ、僕はそれを見て小さいペニスを擦り、精液をぶちまけているのだった。他者の作る世界は、すべて異界だ。だから僕は僕の書いた作品が面白いのかわからない。異界の作品のどこが面白いのかはわかるのに自分の作品になると面白いのかわからない。面白いという感覚は、客観だからだ。物語の登場人物が、その作中内で作品のことを面白いと思えない(ないし、そんな意識が働かない)のと同じだ。作品の中に入り込んでしまえば、それがそこの現実で、その現実が物語である必要はない。ただ事件が進むだけで、登場人物の心象は、表情やセリフや地の文でしか表されない。役者ですらない。僕は筆者なのに物語の中に居てそれを書いている。構築なんてしない。はじめからできている。だから自慰にしかならない。

つまり僕は、徹底的にこの手に関しての才能がないというわけだった。他者を考えられないのではなく、他者がいないから、他者のことを考られるわけがないのだった。そんな僕でも愛されたい。汚れきった汚物まみれの僕は愛されたい。誰も見向きもしないだろうが愛されたい。愛されるためには努力しなきゃいけない。努力? 僕はそんなの嫌だよ。僕はありのままの僕を愛して欲しいんだ。
これが僕の本性なんだ。

話を戻そう。
アイデンティティと信じるということは、密接につながっているように見える。なぜなら信じる、信仰しそれにしたがって行動するということはそのままアイデンティティになりえるからだ。信仰というのは宗教用語的な意味で(違うかもしれないが)信じ、疑わないということを指す。
信じるという行為は、おそらく客観だ。主観において俺は信じているんだ! ということを主張しても他者はわからない。わかるわけもない。お前の心のうちを見ることができないから、私がわかるわけがないだろうということになる。つまりは、そんな発言をするのは馬鹿だということになる。"私は神だ!"というのと同じくらいの。
信じるというのは、自然にわかることであり、あるいは他者がつける称号のようなものの一つだと思う。あの人は信じているんだなぁ、というのは、なんとなくわかるものだし、にじみでてくるものだからだ。
あるいは、信じているというのは納得させる言葉だ。言葉を聴いて、あぁ、この人の信念はこうだからああいうことができるのか、というのが信じることだとも思う。どちらにしたって客観だ。客観で理解できる性質だ。
僕は主観しか持ち合わせていないと上で書いた。客観がわからない。あるいは、自分の中に客観を作り出すことができない。主観においてしか感想できないし、作品に表すこともできないし、文章もかけない。信じるということも、客観なのだからできない。というか、僕の使う信じるという言葉と、客観のある人の信じるという言葉がおそらく違う。僕にとっての信じるという事はどこか流動的であるのに対し、おそらく客観のある人の用いる信じるという言葉は固定的だ。ゆるぎない、石垣のようなものだと思う。行動の基点なのかもしれない。
僕の行動の基点は僕だ。快楽主義を謳歌しているスカトロ野郎も真っ青の汚物野郎である。だからすべてにアンモニア臭がするし、糞の臭いがする。掌からはイカのにおいがする。チンコからは精液がドロっと流れ出ている。それできっと虚ろな目をしてよだれとかたらしてんだろう。だから僕の小説は腐ってるだと思う。ほめられたもんなんじゃないんだと思う。

僕は信じたい。なんでもいいから信じたい。信じるという言葉を確かめたい。
そして評価されたい。ちゃんと、君の小説は面白いと言われたい。
それが今のままではありえないものだとしても。
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正直に書いても意味ねージャンということで生年月日は抑えとこっと☆

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