言葉は常に浮いている。なぜなら、発信者と受信者から、それぞれ乖離しているからだ。
そのひとつの例が小説ではないか。あるいは詩ではないか。
以前、イラストと小説の違いについていくらか討論めいたことをやったことがあるけれど、やっぱり僕の意見を反論したあの価値観は、間違えているのではないかという気がしてならない。
まずひとつに、イラストと文章のサイズ差がある。
あそこで僕の敵側になった人たちの言い分では、イラストと文章で比べるなら、1枚と1文で比べるべきだという。いまさらわかったのだが、これはまったくもっておかしい。おかしいといわざるを得ない。
そう思っている人は情報の密度やら、量やらについて考えたことがないのだろうか。いや、しかし彼らは絵画は1枚なのに情報が詰め込まれてる、すごい! というような旨の発言もしていた。そういうわけではないらしい。じゃあ、なぜあんなアホなことを言ったのだろう。
イラスト1枚が持つ情報量に、文章1文が持つ情報量が勝てるわけがない。こんなものは、比べるより明らかだ。通常、文章1文では、ひとつかふたつの情報を入れたら文を終わらせている。続けていたら何が書いているのかがわからなくなるからだ。混乱が少ないように、文章では意図的に情報を制限している。例外はあるだろうけど。
さあ、ぶち壊そう。
まず、認識するのに時間差がある。いくらイラストが1枚の絵なのに情報量が(ryと言っても、それを瞬時に理解することは不可能だ。まさか、それを知らないで語っていたわけではあるまい? 通常、人間は、自らの興味の有る対象について目が行く。たとえば顔だとか、手だとかだ。背景はその次であることが多い。モナリザなんかを見てもらえばわかるだろう。実は、あれの背景の水平線はずれているのだ。僕は去年まで気づきもしなかった。すべてはダ・ヴィンチ・コードのおかげである。
なぜモナリザの背景の水平線がずれているのかに気づかないのかといえば、肖像画とか顔面や胸部を見るものという風に捉えているからではないか、むしろ、それ以外はつまらないとでも思っているのだろう。とりあえず顔! 手! みたいな。
そう考えると、文章と似たような部分が出てくる。正確に作品を読み取るには、更なる情報をさぐる必要があるのだ。絵画の場合には認識の遅さ(あるいは注意深さ)であり、文章の場合には情報の補填である。
さて、これによって絵画1枚=文章1文というアホ論理は崩壊した。絵画には深さがあるのだ。
さらに言えば、僕の言っていたイラストというのは、オタク文化的な、同人的、あるいはラノベの挿絵などのイラストについてであって、絵画ではない。なのに絵画を持ってくるから困る。オタク文化的なイラストについて言えば、彼らの目的は顔、胸、脚、服装、翼などをどのようにして、いかにそれっぽく描くかというものであるという風に思っている。大体において、他の情報がないからだ。大抵舞台は外であることが多いし、空、夕焼けなどの背景が多いだろうか。あと真っ白な背景とか。そんなようなものに関して言えば、それは考えて書いているといえるのだろうか。ただ書いているだけではないのか? どこにエンターテイメントがある? ただあるだけじゃないか。萌えるだけのエンターテイメントに考えている考えていないなんて関係があるのか? ようはそれっぽい美少女を書いて、それっぽく演出すれば完成ではないか。それのどこを読み取ればいい? ただのそれっぽいイメージの具現なんて、「それっぽい」だけの、保守的な価値しか生まない。
僕はオタク文化に対して否定的な立場でものを言っているつもりはない。これは忘れないでほしい。
主題がかなりゆれているけど気にしない。
あのときのいざこざの原因は、僕の言動にあるらしい。僕はまったくもってそんな風には思わないのだけど、きっと彼らは発言者と言葉を同一のものとして捉えているのではないか。
発言者=発せられた言葉というのなら、嘘を言えばそれが違うことになる。あるいは、メタ言語の話なのかもしれないが、メタ言語ならなおさらそうなる。メタ言語というのは、受信者が勝手に思う幻想だ。
僕はこの幻想を信じていない、というか「聴いていない」らしい。だから、メタ言語で話されても聴く耳を持たない。だから、風月堂さんが「私の言っていることが間違っているんでしょうか」的な発言をしたときは死ねばいいと思った。あるいは、わけがわからなかった。僕が翻弄していたというようなことを言っていた気がするけど、翻弄しているつもりはなかったし(優位に立っていたにせよ)、むしろ自分の意見を聞いてほしかったのだ。僕は基本的に、人に悪意を持たないゴキゲンなやつである。
そして思うのだ。やっぱり受け取るほうにも問題があるのだ。もし発信者だけが悪いのだとすれば、自分の意見をちゃんと僕に伝達できなかった風月堂さんも悪いということになるはずだ。だが、そうではないらしい。あの人はどうやら悪くないようである。まあ、僕が異端だからかもしれないが、それはおかしいことになるまいか。僕は自分の思っていることを言葉にするときにそれが完璧である自信なんてないし、それが相手に伝わるとは思っていない。伝わったらいいなぁという風にして言葉を選んでいる。にもかかわらずそれを批判されてしまうと、我慢ならないというか、無理である。批判されるということはきっと直せということだろうし、悪いことに変わりはない。だが、こちとて、「伝わると思って」選んでいるのだ。こっちが相手の意見を理解できなくても同じではないか。
論理的な問題は、また別として。
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