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烏有に帰した野原で

私設ブログ。 此処で起こったことは此処にコメントしてください。お願いします。

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2026.04.01 Wednesday 16:02

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肉のつながり、精神のつながり

2009.03.02 Monday 13:58

僕が今抱いている感情に、肉の所在はない。限りなくない。そのような妄想を抱いたこともなければ、そもそも自分にはあまり性欲がないことに気づく。やりたいという感情ではないのだ。けれども、これを恋情だと思いたい。友情なのかもしれないけど、友情がこんなに切望されるものなのだとしたら、それは凄いことだと思う。恋愛なんて言ったら、死んでしまう気がする。
ふたりエッチやら、松浦理英子やら、桜庭一樹が『私の男』で築いたような関係は、肉のつながりだと思う。つまり、性交によってつながっている関係である。ふたりエッチの二人は、恋愛結婚ではなく、お見合いで結婚して、結びつき、その関係がより強固となっていくし、松浦理英子の場合、『親指Pの修行時代』などは肉のつながりをテーマにしたもののように思えるし、桜庭一樹が描いた『私の男』なども、運命に翻弄されて作られた肉の関係だと思う。
僕は今、肉によってつながりたいと思う人間はいない。性欲がないのか? と問われると、自分でも疑問に思う。僕は性欲を抱いている? 少なからず、自分のペニスは反応をするけれども、それは性欲が関係しているのだろうか。
精神によって(やわらかくいえば心によって)つながりたいと思う人は、いる。自分でも良くわからない感情だから、どうしたらいいのかわからないでいる。
今までこれほど切望したことはなかった。今までこんなに欲望したことはなかった。しかし彼女は、僕の夢にも出てこないし、簡単に言えば、僕の携帯の中にしか存在していない。そこに本物の彼女がいるわけではない。けれども、見ていると妙に興奮して、自分で押さえつけてしまう。
僕は知りたいと欲望することが、あまりにない。教会で、よく仲間たちが「イェス様のことを知りたい!」ということを言うけれども、僕は知りたいとは思わない。そういうものなのか、と思うけれど、僕はまったくイェス様のことを知りたいと、願ったことは一度だってない。なぜなら、彼は常に僕の前にいて、僕はそれについていけばいいのだし、知ったところで状況は何も変わらないし、もし知らなくても、彼に従属することはできる。逆に、言葉によって彼を縛り付けている可能性を考えなくてはならない。
それは彼女に対しても同じだ。僕は関係を望んでいる。知識として相手を捉えるのではなくて、関係性として、この人にはここまでしてOKというような、そういうものとして捉えている。だから、自分のことを知ってほしいという欲望よりも、自分が何をしても許してくれるという関係のほうを欲望する。ラ研チャットはもはやそういう場所ではなくなってしまった。今ではRSがそうなのかもしれない。
彼女が僕に送ってくるサインによって、僕が気をよくしているというだけなのかもしれないが、思っているだけ幸福だからそれでいいじゃないかと思う。
ただまあ、今更ながら、片思いが辛いというのがわかってきた気がする。

ていうか、会話していないと暴走してしまうな、こういうの。どうどう。
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言葉について。

2009.03.02 Monday 03:04

僕は獣なのかもしれない。というか、自分のことをそう思う。論理が得意というわけでなければ、何かの徳があるから行動を起こすという思考回路自体があまり好きではないから。
はじめのほうに、書けた! と思った(または錯覚した)小説も、あまり理路整然としていたわけではなかった。むしろぐちゃぐちゃで、溶解したようだった。けれども、僕は書けた! と思ったし、それを評価してくれたひとも何人かいた。僕の中で、その作品は特別な作品となっている。今ですらどうやって直そうかという見通しすら経っていない。1年前の作品なのだけど。

イトウちゃんを見ていると、どうも言葉に操られているという気がしなくもない。あくまでもこれは今の僕の所見であって、常にそう思っているわけではないということを付け加えておく。
僕は前から、言葉は浮遊しているということを言っている。言葉によるコミュニケーションは奇跡だとも。もっとも、それについての反響も何もないから、自分の中ではある種のバイアスとなってる部分があると思うけれど、言葉は言葉だけで語られるものではないと思うし、言葉でない言葉というのも存在すると思う。祈りなんかがそうではないだろうかと思うのだけど。
すべての事象を言葉によって分解しようとするのは、不可能だ。世界には言葉しかないわけではない。言葉以外の概念も存在するし、言葉がなくても生きていくことはできる。動物たちがそうであるように。
もともと言葉はコミュニケーションの道具ではなかった。神であった。しかしそれを人間たちがコミュニケーションの道具として使おうとしたことから、言葉が暴走をし始める。言葉の起源について考える気は、毛頭ない。むしろ、そんなことはどうだっていい。知ったところで、言葉は解明できないだろうから。
いにしえの人々は、言霊という概念を持っていた。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A)これだけで、言葉がコミュニケーション以外の力を持っていたことが伺える。また、言葉に親しんでいればわかるように、言葉にはいくつかの側面がある。音、形、意味、それらからくるイメージ。これらは、個々によって違う(はずだ)。だが、伝わることには伝わる。それは、発言者とそれを受け取る者の環境に左右されるからだ。もし、住んでいた地域が近く、どちらともが日本人であったなら、そこまで大幅なずれを観測することはないだろう。もっとも、これはかなり巨視的な意味での判定になる。だが、言語とは所詮それだけの意味しかない。言葉は文化だ。
さらにいえば、言葉とはかなり自由な物質であるとも言える。日本語がさっぱりわからない人間に、怒りながら「愛しています」と、何度も何度もいうと、おそらくその日本語がさっぱりわからない人は、日本人に怒るときには「愛しています」と言うだろう。もしくは、日本人と限定せずとも言うのかもしれない。言い方の問題だといわれそうだが、言い方ですらも言葉であるので問題はない。
音楽は、言葉の広さを教えてくれるだろう。クラシック音楽ではなく、歌だ。歌う行為にも、聞く行為にだって言葉は作用する。歌の場合、歌詞だけ、メロディだけではなく、それらすべてを含めてを評価する必要がある。殊に作品単体を評価するのであれば。作詞者の意図を読み取るというのなら、歌詞だけを抽出することができるかもしれないが、それはあまり精度がいいとはいえないはずだ。歌にとって、メロディと歌詞は一体であり、引き離すことはできない。これは保坂がテクニックを語った時に言った、「一つ一つの個別の小説が小説になっているから成功事例に見えるだけ」と同じようなことではないかと思う。無論、これは僕のイメージでの話であって、ほかの人はわからないだろうとおもう。
言葉には、ここまでの広い意味、意義があるのに、なんとなく、そこまで目が行っていない気がするのだ。
言葉の「意味」だけに囚われていて、それ以上の意味を感じられなくなっているように思える。僕がこうして文章を書いていることの意義は、完全に自分のためだ。伝えることが目的でないし、別に伝わらなくてもいい。過去の記事の見直しなんかしないし、コメントがついてもへぇ~ と思うくらいだと思う。しかし僕はブログを書いている。ここに自分がいるような気さえする。けれども自分というものは、メッセではなしたときの自分とは、微妙に違う。また、明日朝起きてからの僕も、この自分ではないだろう。大体の場合、記事が途中で終わっているものは、自分が変わったからだ。僕は時々ブログを書いているとき、言葉を失う。僕は常に、文章を書くときには、言葉が見えているのだけど、興味がそれると、とたんに言葉は消えている。それで、記事を終わらざるを得なくなる。続きなんて、きっと100年経っても出てこないし(少なくとも書いていたときの自分はもう二度と出てこない)、そもそもそこまで集中することができないから、書くことができない。だけど、僕はブログを書いたというだけで、一種の達成感を感じる。自分を書けたということに、きっと満足しているのだろう。
僕は言葉の意味についてあまり考えて文章を書いてはいない。むしろ、勝手に手がタイピングしているという感覚に近い。だから分離しているように見えるかもしれないが、そんなものは端から考えていないわけだから当たり前だ。しかし、僕は少なくとも伝わると思われる言葉を用いてこの記事を書いているし、ブログを書いてきた。

言葉は生きている。それは使われるとか、使われないとかでの意味ではなく、それだけ自由に動き回っているということからだ。だから僕はそれをそのままにしている。単純にそれだけだ。
僕が読むように書いているというのは、こういうことだ。僕は、読みながら書いている。

そもそも、内にあるものを言葉にする時点で劣化しているのではないか? 言葉によって表現できないものは、当然存在する。しかしそれを無理にでも表現しようとするから、劣化せざるをえない。第一、ぴったり当てはまる言葉なんてものは存在しない。今の自分と同じ自分を発見できないのと同じように。言葉は生きているのだから。
虫かごに網をもって、虫取りに出かけても、そこにはカブトがいなかった。君はどうする? また、君があきらめて帰ってきたとき、夕方のニュースで君の探していたクワガタムシが絶滅したことを知った。君はどうする? 劣化って、こういうことでしょ?

言葉は、僕らが思っているよりも遥かに自由に生きている。こうしてどんどん文字を量産するように。

ありえないなんてことは、ありえない。鋼の錬金術師でグリードが言う言葉だけど、これは、本当に痛感する。本当の意味での自由とは、そういうことだと思う。現実には、縛られているように見えても、どこかでは自由が存在して、そこでは人間が観測することのできない現象が広がっている。

歌は言葉だ。

言葉ですべてを割り切ろうとするのは不可能だ。正確なんてものは、自由の前にはその権利を失う。すべてはめちゃくちゃで、正確だ。

しかし僕は羨ましいとも思うのだ。イトウちゃんの書く文章は、ときどき、僕では絶対に書くことのできない領域に踏み込んでいるから。

恋愛? 何それおいしいの?

2009.02.28 Saturday 16:29

弟が、僕にゲームを見せてほしいと言うことがある。
「なんで?」
「なんで?」
僕は弟がなぜゲームを見せてほしいかということに対して「なんで?」と聞き、弟は僕の「なんで?」ということに対して「なんで?」と言ったのだろう。価値観の相違というか、そういうものが見えてくる。

昨日ギルドチャットで恋愛の話になった。その話を聞いていて思ったんだけど、あながちケータイ小説とかドラマとかって、現実準拠なんだなというようなことだった。あるいは、その逆なのかもしれない。もしそうだったら、すごいことだ。テレビドラマが、若者の頭脳を洗脳したわけだから。
僕の中では、月9も赤い糸も恋空もセカチューも昨日聞いた話も、ほとんど一くくりにしてしまいたくなるのだけど、そういう恋愛だと、類型化されているように思える。クラスメイトや後輩なんかは、携帯電話にプリクラ貼ってるし、凄く熱烈に恋愛してるように見える。だがそれは、決められたレールに沿って走っているようにしか思えない。
というのも、月9やらケータイ小説やらに流れている雰囲気が、そのまま恋愛話に受け継がれているからだ。だから、僕はその手の話を聞いても、どこかドラマじみてるなー、とか思ってしまう。
僕はそういう恋愛ができそうにない。枯れているというわけではないだろうけど、好きになる、恋人になるということは、一緒にプリクラとったり貝のように握り合わせたりセックスすることに限らないはずだし、もしそれだけなのだったら、僕は恋愛をしたいとは思わない。というより、そんなものの価値がわからない。それをしたらどうなる? まさかそれが恋愛の形なのか? おかしい。まったくもっておかしい。
というのも、それは僕が松浦理英子読んだり、江戸川乱歩読んだりしてるからかもしれんが、もしそうでなかったとしても僕はただただ畏怖するだけだ。信じられない。単純に。リアリティもなければ、それがリアルだと認知するのも難しい。まるで別世界の話に映る。
しかし、みんなはそういう話をする。こわい。

なんでもっとスマートに恋愛できないのだろう。なんでわざわざ目に見える形でしか人を信じられないのだろう。これも脳化なんだろうな。もっと獣みたいに大人しく恋すればいいのに、わざわざ燃やそうとしているように見える。だって、恋愛に必要なものって、心だけでしょう? ロマンチスト風に言えば。自分がどう思っているか、また、相手が自分をどうおもっているか、それを信頼しているか。そこのつながりさえわかれば、あとはどうでも良いのではないか? 
けど信じられないんだろう。脳化が進んでいるから。獣的な感覚ではなくて、頭で恋をしたがる。だから、相手が自分をどう思っているかが不安になるのか。すげーな、養老。だから、リアルよりもリアリティのほうに傾くし、プリクラとか、メアドとかで自分たちがつながっているよね、ということを確認したがる。HYの366日なんかは、願望なんだろう。それだけ人を信じられたらいい、という。
怖いくらい覚えているの あなたの匂いや しぐさや すべてを
おかしいでしょう? そう言って笑ってよ
別れているのにあなたのことばかり
つまりは、これほど狂おしくなりたいということだ。執着したいということだ。けれどもそれができないからこうして歌詞として書かれ、赤い糸の主題歌となる。トキが過去の絵画にほとんど登場しなかったのと、まったく正反対の理由だろう。
だが、僕にはまったくこんな気持ちを理解することはできない。「おかしいでしょう?」という問いに、「おかしいよ」、と答えたくなる。閉口なんてできるか。気持ち悪い、と言いたいわけじゃない。いや、気持ち悪いんだが、それはべったりと執着してるからではなく、これを感動的だ! という人たちのほうだ。
最近の恋愛映画(セカチューとかタイヨウのうたとか赤い糸とか)は大抵泣かせるために作っている。そこに価値の重きを置いているようにさえ見える。だが、それはそういうニーズがあるからだ。恋して、自分を徹底的に相手に埋没させたいからだ、そして、それをいい思い出としたいからだ。まるで願望を映し出している。だからこそ、人気が出る。怖い話だ。恋人が死ぬことを、多くの人が望んでいるのである。

手をつなぎたいとか、キスしたいとか、セックスしたいとかいう欲望は、確かに僕の中には存在するのだろうけど、僕はそこにリアリティを見出していない。実際に自分がそうなるのだ、ということを意識するだけで怖くなる。まるで、死を考えたときみたいに。
だからこそ、恋をしたい、と願う。類型化できるような恋ではなくて、もっと違った形で。
Break throughしたいから。

あつまりのなかで。

2009.02.28 Saturday 13:07

最近、学校という場所があまりにつまらなく思えてならない。REDSTONEのギルドのみんなとチャットしているだけで、まるであしながの集いに来てるみたいに思えるし、学生キャンプに参加してるようにも思える。ひどく心地がいいといえば、それは間違いではないけど、正解ともいえない。僕はどこかに息苦しさを感じているし、自分をセーブしてる。しかし、セーブしなければ何にもならない。昨日少しセーブを解いたのだけど、やはり疑問を持たれたようだ。疑問を持たれることが怖い。自分が異常だとされることが怖い。異常とか正常とかないとわかっていても、それを論破しようという力強さと度胸を僕は持っていない。きっと自分は間違えているんだという風に、考えているからかもしれない。だから判断ができない。誰が正解なのではなく、何が正解かだ。と言ったのは誰だったろうか。それを実践しようと思っても、僕にはそれは難しいことだ。
何にも属していないことが危機感につながっている。共感者がいないことが。「誰も理解できない」。知ってるよ。だが理解じゃない。理解なんていらない。やさしくされるのは嫌じゃない。だが少し違うからって攻撃されるのは我慢ならない。味方はどこにいる? どこに盾がある? 今のところ、そんなものが見えた気がしない。ずっと矢面に立って、矢がこちらへ飛んでくるのを必死に避けている。

2009.02.26 Thursday 11:26

REDSTONEの夢を見た。具体的なことは良くわからないけど、とりあえずREDSTONEをやってた。うん。
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