文学を高尚だと考えている人が居るけど、別にそうでもないと、私は思う。
もし文学が高尚なのだったら、舞城王太郎は純文学作家として三島賞を受け取ることはできないと思う。
サリンジャーはあんな文体でも20世紀最大の文学者といわれている。
私はあまり本を深読みする人ではない。
ほとんどの場合、一度読んでしまったらポイである。捨てはしないが、感想を胸にしまって本棚にしまってしまう。
だから、そういう読み方をする人間にとっての意見だという風に捉えていただくとうれしい。
文学とは何か。
私はある種の探求だと思っている。
喩えるなら、「答えのないクイズ番組」。
つまり本は、答えのない問題集ともいえる。
一つの本に解答欄はいくつあるかわからない。それは筆者のみが知りえること。きっとそれを見出すのが文学部とかで扱う文学ではないのだろうか。あるいは批評。
でも私は別にそんなことどうでもいい。あるいは、知りたくない。
エヴァンゲリオンというアニメが放映され、現在でも人気だが、あの作品が難解だと呼ばれるのはそういう風に見出そうとしているからではないだろうか。
わけがわからない。なんであそこがああなるんだろう。
そういう疑問をもったなら、答えの出ていない数学の問題と同じでうずうずしては来ないか。
つまり気持ちが悪くなるのではないか。
そう思うと、それについて道筋を立てる。ちゃんとした線引きを行いたくなる。ここに文学はある。
文学とは同じものがほとんどないはずです。なぜなら、人間はみなブラックボックスを持っていて、すべての刺激は一度そのブラックボックスを通されるからです。
もしブラックボックスがなかったなら、文学なんて生まれなかったでしょうね。
文学とは想像の一種ともいえると思います。
エンターテイメントについて考えると、娯楽性の塊と勘違いされそうですが、そうではないはずです。
エンターテイメントは時に文学を内包します。
例えば馳星周、桜庭一樹、原田宗典、星新一、石田衣良、桜井亜美など。
そして娯楽性の塊というのは、例えば京極夏彦、神坂一、島田荘司、阿刀田高、乙一など。
一体どこがどう違うのか、というのは感じてもらうしかないかなぁというのがまずあります。
あくまで私の文学であり、ココにおいての批判は少し遠慮していただきたいのですが、あえてどこが違うのかというのを述べるなら、何を描きたいのかと、どうすれば楽しませることができるか、であると思います。
これは出発点のことではあるのですが。
何かを描きたいという出発点ならば、そこにはソースともいえる核があります。ここはこうこうこういうことだからこう感じたのだ、というようなものです。
どうすれば楽しませることができるのか、というのは、毎週月曜日にやっているヤッターマンを見るとわかるかもしれません。
あるいはドラえもん、あるいは水戸黄門、あるいはサザエさん、あるいはちびまるこちゃん。
ですが、ここに割り切れない特殊人物が居るのです。
その名も、奈須きのこ。
彼の著した「空の境界」は、私には判別することができませんでした。
自分のやりたいことをやっているという印象はあるのですが、そこに娯楽性も存在しているのです。
娯楽性のあるものがやりたかったというのなら、確かにうなずけますが、今提示している私の分け方においては彼は丁度中間に居ることになります。
まあ、そんなことを考えたってだけです。はい。
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