ライトノベルってこんな大先輩がいたんだった。忘れてた。本当にバカだ。
スタジオジブリ作品はやはり、腐ってもアニメである。アニメ、漫画を源流に持つライトノベルだって参考にできる部分はあるはずだし、なによりナウシカはオタクの源流を作ったんじゃないの? 結局帰ってきた場所はオタク製造所。
スタジオジブリでは、まさにライトノベルというような作品ばかりを制作している。風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、魔女の宅急便などなど。普通に考えて、設定、ストーリーテリングからしてもまるでライトノベルである。じゃあ、ジブリとラノベの差はどこにあるんだろう。
http://tamanoir.air-nifty.com/articles/2005/07/post_f1bb.html
また佐藤亜紀です。ここでは宇宙戦争についての感想が書かれているのですが、その中に、
ともあれ、微温的ファミリームービーの代名詞になりかねなかったスピルバークおじさんの到達点が「宇宙戦争」だったというのは恐ろしい話だ(よく考えれば宮崎駿だって、ジブリの宮崎おじさんながら、破壊と大量死のマエストロだ)。
という一文があります。というわけで、盛大に誤読させていただきます。
というか、このことを考えるのであれば、ナウシカを見ればわかるのではないでしょうか。あるいは、ラピュタでもいいと思います。
僕はラピュタでのムスカ大佐の「まるで人がゴミのようだ!」という台詞にまったく引っかかりを感じなかったのだけど、そういえばかなりひどいことを言ってますよね。
「まるで人がゴミのようだ!」という台詞がどこで登場したのかといえば、たしか飛行船(あるいは飛行戦艦かな)のところどころから火の手が上がり、墜落している様子を飛行石の力によって俯瞰している場面だったと思うのですが(それか、太った上官が透明の半球に追いやられ、ムスカ大佐の幻影の演説を聴いた後、下の口が開いてぽろぽろと落ちていく場面でしたっけ)、もしその場面をいいかげんな表現にしていたなら、この台詞は浮いてしまうでしょう。それほどまでの攻撃性を帯びています。「人がゴミのよう」になるのはそれなりに大変なはずです。もともと、人はゴミではないし、それこそ人権やらなにやらで、なんとか意味を持たせようとして生きています。ゴミというものは、認識的にいらないもの、不要なものでしょう。とするならば、これはひどい矛盾です。意味を持たせているのに、ゴミになる。大抵の戦争映画や戦争ドラマなどで見られる表現では、まだ個の尊厳を捨てることができていません。キャラクターを無意味化することができていないのです。しかしラピュタでは、問答無用。それまで張り切って登場していた太った上官というキャラクターをあっという間に海原へ突き落とします。「その後」なんて描かれないのです。おそらく彼は海面に叩きつけられ、文字通り海の藻屑になってしまうでしょう。まさにゴミ。さらに言えば、太った上官というキャラクターの役目は、幻影に数発発砲し、弾切れになる時点で終わっているのです。彼が死ぬときは、一兵士=エキストラとして死んでいます。
またもののけ姫では、(なんの目的だったか忘れましたが)大名行列のように列を成して山を登っていくシーンでがけ崩れがおき、牛や人や荷物が、平然と落ちていきます。そこではあくまで「がけ崩れだ!」「さぁ、進もう」(というような会話があったように思えるのですが、定かではありません)程度の出来事でしかない。そして、ここにリアリティがある。
ニュースで戦争や巨大な事故などを報道する場合、どうしても戦死者あるいは死者については数字で表しがちです。まず時間がないし、そして問題となるのはどれだけの人が死んだのかということであり、誰がどのようにして生き、どのようにして死んだのかについて、誰も興味を持たないからです。たくさんの死者を生み出す出来事においては、人の尊厳なんて笑えるものより、規模のほうが興味をそそるわけです。つまり、人はゴミ。
さて、リアリティについて言うのであれば、さらに例を挙げることができます。ラピュタのパズーの海賊船での修復作業や、もののけ姫での不遇者による鉄砲鍛冶など。
パズーの作業はおいておくとして、注目すべきは不遇者たちの存在です。
今のライトノベルに、エキストラとして不遇者たちが出てくるでしょうか。答えは当然――否です。なぜ否なのか。それは、世間が不遇者たちを特別視しているからに他なりません。それゆえに、扱うことも難しい。
特別視されているということは、出せば反応が返ってくるということにも似ています。良い例が、日テレの24時間テレビなどで出てくる人たち。あの人たちは、正直言って僕らと同じ人たちです。同じというのは、人間であるという意味においてです。たとえ彼らの体のどこかが欠損していたり、能力的に劣っていたりしても(ここでの「劣る」は劣等生のそれを凌駕します)、僕らと同様、人間です。そう考えるのならば、彼らの身体的な特徴を可哀想とでも思い、テレビと芸能人(ひいてはスポーツ選手)のためののいいネタにするのは、やっぱり良いことだとは思えませんし、そんなもので感動するなら小説でも読んでろという風にも思います。
彼らの身体的特徴を保護しようとか思ってるキモチワルイ人々は、大抵の場合、彼らを擁護するでしょう。他の皆が彼らを攻撃している、という幻想に取り付かれているからです。もっともこの、攻撃しているという幻想も、それを擁護してやるという狂った想いも、どちらにしても潔癖症的思考から導き出されたような気がしてならないのですが、それはまた別のお話ですね。
結局のところ、彼らは表舞台に出るときには主役か脇役にならざるを得ない。世間がそうでないと認めてくれないのです。もののけ姫のあのシーンのように、知っても知らなくてもいいような情報をあえて載せるということは、作品世界を洗練することになる。
また、千と千尋の神隠しにおいて種々様々な神様たちがエキストラとして登場しているのもこのためでしょう。
ライトノベルに足りないのはリアリティだ、という風に言っているように思われるのなら、それは合っているという風に言えると思います。しかしここでいうリアリティというのは現実性よりも、幻想性に主眼が置かれています。幻想性があいまいなもの、よくわからないもの、あるいは不明瞭なものという言意を含んでいようと、僕はこの言葉を使います。幻想性。
まず、普通に皆が使うリアリティという言葉は一体何を示すのでしょうか。現実感? それともreal-ty(現実+形容詞形)だから現実っぽいという意味なのか。
よく言う、リアリティがないという風に使われるときのポイントは、それがあまりにもひとりよがりすぎたり、突拍子のない出来事を急に起こしたりするからそういわれるのでしょうか。
でもね、それって悪いことなの?
エンターテイメント小説においては、確かにひとりよがりなのはいただけません。むしろ純文学でさえもいただけないとは思います。しかしながら、ちゃんと考証すればちゃんと生かすことはできるはずです。また、突拍子のない出来事に関しては、もしリアリティを現実性という風に解釈するなら、笑うことさえ可能です。交通事故に伏線はありません。しかし、原因は少なからずありますよね。それもあまりあいまいなものだという風に考えるのも可能ですけれど。
人間はどうしても事が起こってから考証します。なぜならそういう方法でしか知ることができないからです。とくに現実においてはそうでしょう。しかし、事故が起きたことの原因とは、そんなに知る必要があるのでしょうか。もちろん、必要なケースはあります。誰かをはねてしまったり、それによって死に至るようなことになったら裁判になります。裁判になったらどちらが悪いのか、というところが争点になることでしょう。このときに使います。
しかし、そうでない場合では、原因とは、必ずしも必要ではない。僕のように軽トラにはねられてフロントガラスに罅を入れただけで済んだときには、相手が携帯電話で話していようと、僕が後ろを向いていようと、ほとんど関係がないといえます。余分な情報ではないでしょうか。
どのようにしたら事故が起こるのか、ということは、いくら小学2年生だった僕でもわかりました。だから、僕は結局、事故があっても反省すらしなかったのです。むしろする必要がなかった。だって、原因はわかってるのだから。どちらかといえば、運が悪かったのでしょう。
伏線についてはたぶんこれが全てではないでしょうか。
えーっと、使われている語の反論ができていないから弱い論になっているけどキニシナイ。
それで、僕が言うリアリティですね。さっき幻想性だという風に言いましたが、ニュアンスではファンタジー性です。あるいは、フィクション性。言葉が変わってしまいましたね……(汗
まあ、それは置いておくとして。
僕がリアリティがあるという風に思う作品は、フィクションとして屹立している作品です。
と、一応書いたところで疲れたわけです。